11か月

[22] 2021年2月20日(土)

(1月19日〜2月18日)この記録は、大学の授業や校務にかんすることが中心で、プライベートなことは省いたものだ。実際には、外出も旅行もままならないので、記載されていない日も、ディスプレイを眺めている時間が長いように思う。昨年の3月4日から月ごとの記録をはじめたので、この生活は、まもなく1年になろうとしている。きょうは、暖かい一日だった。

  • ひと月」(3月4日〜4月15日)
  • ふた月」(4月16日〜5月15日)
  • 3か月」(5月16日〜6月19日)
  • 4か月」(6月20日〜7月18日)
  • 5か月」(7月19日〜8月18日)
  • 半年」(8月19日〜9月18日)
  • 7か月」(9月19日〜10月18日)
  • 8か月」(10月19日〜11月18日)
  • 9か月」(11月19日〜12月18日)
  • 10か月」(12月19日〜2021年1月18日)
1月19日(火)

最終回は、けっきょくオンラインで。やはりオンキャンパスで開講したかった。

  • 研究会(補講2)(180分, オンライン)
1月20日(水)
  • ミーティング(60分くらい, 対面)
  • 打ち合わせ(30分, オンライン)
  • 会議(60分, オンライン)
  • 面談(60分, オンライン)
  • 加藤研のウェブマガジン(第49号)発行。今期のテーマは「距離」。

1月21日(木)
  • 1月21日の東京都の新規患者にかんする報告件数:1,485
1月22日(金)
  • 大学院生とのミーティング(60分, オンライン)
1月23日(土)

(校務を理由に)欠席しがちの学会の理事会に、ひさしぶりに出席

  • 「日本生活学会」理事会(120分くらい, オンライン)
1月25日(月)

昨年の7月25日からちょうど半年。一人ひとりが撮影した1月25日の断片を束ねて「A Day in the Life 2」をつくった。緊急事態宣言が発出されているものの、半年前よりもみんな「動いている」ように見える。

  • 面談(60分くらい, オンキャンパス)
  • 会議の準備ミーティング(90分, オンライン)
1月26日(火)
  • 会議(60分, オンライン)
  • 会議(90分くらい, オンライン)
  • 会議(60分, オンライン)
1月27日(水)
  • 会議(60分, 対面)
  • 会議(90分, オンライン)
  • 会議(120分, オンライン)
  • 会議(120分, オンライン)
1月29日(金)

「フィールドワーク展」はオンラインで開催することになって、少しずつ準備をすすめている。夜、フジイちゃんから『ジブンジテン』を受け取った。年末に、これはデジタル化はせずに〈モノ〉としての厚み/重みを育てていこうと決めた。やり方を考えよう。

  • 会議(90分, オンライン)

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2月1日(月)

今回は主査をしている学生がいない(副査が数件)ので、ちょっと気持ちが楽。なるべく、ふり返りをしながらコメントするようにした。

  • 修士課程の最終試験(1日目)
2月2日(火)

そして大学院の会議。またしても、長引いてしまった。

  • 修士課程の最終試験(2日目)
  • 会議(議事進行, 120分くらい, オンライン)
2月3日(水)

毎年恒例、4研究会(諏訪・石川・清水・加藤)による合同「卒プロ」報告会。今年はオンライン開催になったが、面白かった。

2月4日(木)
  • XD研究会説明会(60分くらい参加, オンライン)

そして、「フィールドワーク展XVII:つきみててん」の設営。といっても、今年はオンライン開催なので、だいぶやり方はちがう。設営を終えて、記念撮影。

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2月5日(金)〜7日(日)

「フィールドワーク展XVII:つきみててん」のはじまり。初めてのオンライン開催となった。Gather.townは、なかなかいい感じ。とくにぼくたちが開く展覧会は、「見ればわかる」というよりは、会場で話をすることが大切。そのための仕組みとしては、適していたように思う。ビデオは初日(5日)のようす。

2月9日(火
  • 会議(60分くらい, オンライン)
  • 会議(おかしら日記)を公開。
2月10日(水

会議日。やはり、どう考えても会議が多いし長い。まずは、できるかぎり17:00以降には会議を設定しないようにしようという話。

  • その1(60分, オンライン)
  • その2(120分, オンライン)
  • その3(60分, オンライン)
  • その4(60分, オンライン)
  • その5(120分, オンライン)
  • その6(60分, オンライン)
2月11日(木)
  • 学生との面談(60分, オンライン)
2月12日(木)
  • 面談(30分, オンライン)
  • 会議(90分くらい, オンキャンパス)
2月13日(土)
  • 会議(30分, オンライン)
2月15日(月)

一緒に食事をすることができないので、たんなるおしゃべりの会となっている「テラス倶楽部」。今回は、こういうセッティングで。

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2月16日(火)

あっという間に展示から1週間。ふたたび集まって、講評会を開いた。オンラインの展覧会は撤収作業が必要ない(そして会場は、そのまま残っている)のが利点のような気もするが、なんだかケジメをつけにくいのかもしれない。(2時間くらいで終えようと思っていたのに、けっきょく3時間になった。)

  • 大学院生との面談(60分, オンライン)
  • フィールドワーク展の講評・ふり返り(180分, オンライン)
2月18日(水)
  • 学期末(マンスリー)を公開。(今月は、だいぶ遅れてしまった。)
  • 2月18日の東京都の新規患者にかんする報告件数:445

(いまここ)

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

学期末

2021年2月18日(木)

「マンスリー」というカテゴリーで、月のはじまりに文章を書いている。今月はかなり遅れてしまって、すでに2月は半分以上が過ぎ去った。この学期末は、いつになく慌ただしかった。先延ばしにして、きちんと向き合っていなかった原稿(これは、すべてぼくのせい)、学期末の採点、「卒業プロジェクト」の評価、修士論文の審査などなど。新年をむかえてからの数週間は、やることがたくさんある。

おまけに、(すでに遠い昔のようにさえ思えるが)新年早々、1月7日には2回目となる「緊急事態宣言」が発出されたのだった。1都3県が対象だったものが、数日後にはさらに7府県が追加された。まちのようすは、あまり変わらないようにも見えたが、けっきょく、このおかげでキャンパスでの(対面の)授業はあきらめることになった。

秋学期は、変則的な学事日程で動いている。じつは12月ですべての講義は(正式には)終了していたのだが、研究会(ゼミ)については、そもそも回数が足りないし、なんとなくケジメをつけにくいこともあって、1月に2回の補講を予定していた。とりわけ研究会の最終日は、(じゅうぶんに注意しつつ)教室に集まりたいと思っていた。4年生が「卒業プロジェクト」をひとまず書き終えたことを労い、「節目」を迎えるつもりだった。
学期の最終回は、いつも全員が3分ずつしゃべる「全員プレゼンテーション」をおこなうことにしている。卒業するメンバーも、あるいは昨秋からあたらしく加わったばかりのメンバーも、研究会での活動をふり返る。とくに調査・研究に関係のないことでも、決められた3分のなかで自由に「何か」を語るというひとときだ。2年生のころから研究会で活動してきた4年生は、3年間をしみじみとふり返る。フィールドワークもまち歩きも、ちょっとした集まりも、すべてあたりまえのように身近にあった情景の多くが、この1年は画面のなかに行ってしまった。4年生がふり返りながら見せた思い出の写真が、切ない気持ちにさせる。「密」などということばを使うことなく、ただいつもどおり集まっていたのだ。

いま「節目」と書いたが、じつはそれは、もうひと頑張りしようとじぶんたちを鼓舞するための意味もあった。毎年、2月のはじめにちいさな展覧会を開いている。1月の中旬というのは、その準備がいよいよ本格的になるというタイミングなのだ。気の利いたたとえが思いつかないが、いわば「出初め式」のようなものだ(「決起集会」?)。ここからの3週間ほど、元気に一緒に展覧会をつくっていこう。その気持ちを確かめ合うような、そんな「節目」だ。

ぼくたちは、フィールドワークやインタビューといった方法を大切にしながら活動している。それを映して、4年生たちの「卒プロ」も、遠いまちに出かけたり、働きながら店を観察したり、あるいは場づくりを試みたり。つまりは、人と人とのコミュニケーションを起点に、実践的な活動をともなうテーマに向き合っている。だから、まちで見聞きしたモノ・コトからえられた知見は、大学のキャンパスのなかに閉じ込めるのではなく、もう一度まちに還すのがよいはずだ。そんな想いで、毎年、キャンパスの外にギャラリーを借りて「フィールドワーク展」を開くようになった。さらに言えば、ぼくが唯一の評価者である必要はないのだ。むしろ、複数の人の目に触れるように成果を外に向けて開くことが大切だ。場合によっては、行きずりの人に問いかけてみるのもいい。
2005年2月に最初の「フィールドワーク展」を開き、以来、毎年(場所を変えながら)成果報告のちいさな展覧会を開いている。17回目となる今年度は、2月最初の週末、みなとみらい(横浜市中区)にあるギャラリーを予約してあった。状況をうかがいつつ、予約制にして人数制限をしながら、なんとか対面で展覧会を開こうと準備をしていた。感染者数の日ごとの集計結果を見るたびに、ドキドキしながら、オンラインでの開催も頭の片隅にはあったが、この1年間窮屈な毎日を過ごしてきたのだから、最後くらいは対面で展覧会を開こうと思っていた。

だが、嫌なタイミングで緊急事態宣言が発出され、大学としての「活動指針」も書き換えられることになった。緊急事態宣言が発出されている間は、さすがに対面の開催は控えたほうがいい。準備や設営、撤収のことを考えると「密」になることは避けられないと思った。延期も検討したが、けっきょくのところは当初の予定どおりの日程で、オンラインでの開催を決めた。17年目にして、初めてのオンライン展覧会になった。
ぼく自身は、研究会の担当者として、この決断をする立場にいたわけだが、対面での開催を断念してかなり凹んだ。学生たちのほうは、わりと冷静に状況を見ていたのかもしれない。この1年間をとおして、たびたび残念な想いをして、悔しい感情を飲み込むようになっていたのかもしれない。

いつもより遅れてこの「月報」を書いているいま、すでに展覧会は終わり、一昨日、講評とふり返りの会を開いたところだ。今年度の展覧会については、別途紹介しようと思う。とにかく、学期末はあっという間に時間が過ぎてゆく。

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写真は2021年2月1日。朝の鴨池。

会議

2021年2月9日(火)*1

話が長いとか、短いとか。そんなものは、人それぞれだ。ぼくのような「おじさん」こそが、説教じみた話を長々としないように気をつけなければならないはずだ。もとより、長い短いは、誰とどこで何を話すのかによって大きく変わる。コミュニケーションの現場は、複雑で起伏に富んでいるのだ。だから、丁寧に時間をかけるべきこともあれば、「ざっくりと」話しておけばよいこともある。

とにかく、ぼくたちはたくさん会議をする。立場上、そういうものだと理解しながらも、朝から晩まで、ずっと会議のまま暮れてゆく日もある。そして、なぜか会議は特別な時間だと思い込んでいる。「会議があるから」と言えば、いろいろなことが許されてしまうような雰囲気さえあるから不思議だ。「おかしら」の一人として役目を担うようになってから、議事進行をする機会も増えた。

月に一度のペースで開かれる大学院の会議は、いつもだいたい90名程度の出席だろうか。毎回、会議に先立って事前の打ち合わせをする。議長であるぼくと、補佐をお願いしている先生、そして学事担当のスタッフと一緒に全体の流れを確認し、想定される質問への応えを準備する。いわゆる「落としどころ」についても相談しておく。そして当日。決められた時刻になると、電子音とともに先生がたが「会議室」に入ってくる。多くがビデオをオフにしているので、目の前には名前や顔写真がタイル状に並んでゆく。定則数を確認して、会議がはじまる。ぼくは、あらかじめ準備してあった議事次第に沿って、一つひとつすすめる。
なにしろ、学際的・複合的なアプローチを標榜している大学院なのだ。同じ議題であっても、一人ひとりの教員のリアクションがちがうのは、当然のことなのだろう。急がず丁寧にやろうとすると「そんなことは、もう思い切って決めてしまえばいい」と言われ、ぼく自身に親しみのある判断基準で決めようとすると「それでは不十分だ」とツッコミが入る。スピーカーから声が流れるかと思えば、チャット欄にもテキストが躍る。

会議って、いったい何だろう。会議というのは、どれほど周到に準備をしていても、本番になると予期せぬことが起きる。リアルな議場なら、顔色をうかがうことができたり、部屋を満たす雰囲気がヒントになったりするものだ。学事担当のスタッフに目で合図を送り、頷きを返してもらう。あるいは、後ろからそっとメモが差し入れられることもあるだろう。いまはSlackが、インカムのようなはたらきをしている。手もとには議事進行用のメモ、目の前には会議システムの画面、そしてもう一台のPCでSlackを追う。予想外のところで進行が滞り、紛糾することもある。ぎこちない「間」も生まれる。たまに早く終わることもあるが、みなさんからいただいている時間を(ときに大幅に)超過してしまう。そろそろ切り上げよう、これは一度引き取ろうか、次回に回してもだいじょうぶな議題はどれか。議事進行をしながら、Slackの情報を注視する。そんなやり方にも慣れてきた。

会議の終了を告げると、画面の明滅とともにタイル状の名前や画像が消えてゆく。あらかじめ申し合わせをしていたわけでもないのに、補佐の先生と学事担当のスタッフだけが「会議室」に居残っていることがあった。そこで、議論の流れをふり返る。終わるとぐったりとしてしまう。
もちろん、改善すべきところはある。でもなにより、いつも会議の裏側で忙しく動いているみなさんには、感謝の気持ちしかない。昨年の3月あたりから会議は原則としてオンライン開催に変わったので、リアルな議場での進行に慣れる暇もなく、画面越しの会議に向き合っている。
会議には、儀礼的な意味もあると思う。だが、顔色をうかがい忖度し、多くの「参加者」が沈黙しているだけの会議は、やり方を変えたほうがいい。話が長くなるのはなぜか。それは、「慣例にしたがって」進行する会議そのものへの意見ではないのか。会議のあり方をつくってきたのは誰か。物事の決め方はどのように維持されてきたのか。本質的な問い、変革への欲求は「ざっくりと」話せるはずもない。誰もが誠実に、長い話のために時間を出し合わなければならない。