Hヴィレッジ

2023年3月14日(火)

SOURCE: Hヴィレッジ|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

留学が決まって、どこで暮らすか、あれこれと調べはじめた。といっても、30年以上も前のことだ。ウェブで検索するわけにもいかず、入学が認められたという通知とともに届いた書類だけが手がかりだ。郵送されてきたパッケージには、キャンパス界隈のガイドや学生寮の案内も入っていた。
結局のところ、キャンパスから歩いて数分のところに部屋を借りることにした。大学専用の寮ではなく、近所にあるいくつかの大学の学生や短期で研究者が滞在できる「国際学生寮」のような施設だ。海の向こうだから、事前に内覧などできない。いまなら、動画や口コミの情報とともに物件を検討できるのだが、簡単なしおりと間取り図、料金表だけで賃貸契約をすすめた。

船便で送り出した荷物が届くまでは、スーツケースひとつだ。手続きは思いのほか簡単で、到着してフロントで名前を告げると、すぐに鍵を渡された記憶がある。
ドアを開けると、廊下は薄暗かった。いわゆるユニット式で、10戸の個室が共用の洗面所・バス・シャワーを取り囲むように配置されていた。奥には共用のキッチンとダイニングのスペースがある。さらにドアを開ける。個室は、狭い。シングルベッドと備え付けのデスクで、床がほとんど埋まるくらいだ。北向きの部屋で、大きな窓の外には高い建物もなく、遠くまで見渡すことができた。狭くても、ここが「わが家」だ。ちいさな部屋のベッドに腰を下ろした。アメリカでの生活がはじまる興奮を味わいながらも、心細かった。ずいぶん遠くまで来てしまった。

最初の学期は、とにかくどうしていいのかわからないことばかりだ。おおかたのことは、大学から送られてきた書類の「おすすめ」を参考にしながら決めた。晩ごはんは、ひとまず「ミールプラン」に申し込んだ。あらかじめ定額を支払っておくと、キャンパスにあるいくつかのカフェテリアで食事ができるというものだ。つまりは「食べ放題」なのだが、しばらく利用しているうちに、単純なローテーションでメニューがくり返されることに気づいた。当然、出汁の旨みは期待できず、おおむねケチャップ味のようだ。
なにより、いかにも運動選手というような厳つい学生たちのなかで食事をするのは、なんだか落ち着かない。「食べ放題」はよいのだが、当然のことながら食べる量がちがう。何度もビュッフェとテーブルを行き来して、ものすごいボリュームをたいらげている学生たちの分を肩代わりしているような気分になった。

学期がはじまると、毎日は規則的になった。テキストや論文をたくさん読まなければならず、平日だけではなく土日も机に向かうことが多かった。「わが家」は、狭くてちょっと窮屈だったので図書館で過ごした。キャンパスから数分のところに暮らすのは、勉強するのにちょうどいい。というより、勉強以外にやることがない。図書館は遅くまで開いていたので、晩ごはんを食べてから、もう一度、図書館に足をはこぶこともあった。行けば、たいていクラスメイトの留学生が勉強していた。

留学中の経験は、いまでも身体がおぼえている。それは、数十年経っても、ぼく自身が大学やキャンパスを考えるときの緩やかな指針になっている。日本がバブル景気で盛り上がっていたころ(それは、ちょうどSFCが開設されたころだ)、その興奮とは遠く離れた場所で、いろいろなことを考えていた。思えば、ちょっと窮屈で単調だったかもしれないが、キャンパスの近所で「暮らしながら学ぶ、学びながら暮らす」という日々を送ることができたのは幸運だった。多くのことを知り、たくさんの人と出会った。長きにわたる関係も生まれた。

2019年の春ごろから、「ウエスト街区学生寮計画(仮称)」にかかわることになった。かかわるといっても、大学が主導のプロジェクトで、すでに方向づけられているものだ。設計や施工、さらに運営については、それぞれの専門や技術をもった部署や組織が分け持つ。ぼく自身は、湘南藤沢キャンパスの教員という立場で、一連の計画が具体的にかたどられてゆくのにつき合った。ずっと、留学していたころの日常を思い出しながら、ウチのキャンパスの学生生活について考えていた。あれから、立場や年格好はずいぶん変わってしまったが、ぼくは、キャンパスという場所が好きなのだとあらためて思った。やがて、「仮称」も消えて「Ηヴィレッジ」(イータヴィレッジ)になった。

2023年2月27日、Ηヴィレッジの竣工式がおこなわれた。春を感じさせる晴天だった。ぼくは、幸いなことに、「おかしら」の一人としてΗヴィレッジの竣工に立ち会うことができたが、ふり返れば、キャンパスの北側の一画が整地されたのはずいぶん前のことだ。さまざまな事情で計画は変わり、おまけにこの数年はCOVID-19に翻弄される日々だった。この日を迎えるまでに、ご尽力いただいたかたがたには、心からお礼を申しあげたい。多くのひとの、キャンパスへの想いが結実した。少し落ち着いたころに、内覧や報告の場を設けたいと計画している。
間際まで、仕上げに向けて現場が慌ただしく動いているのを近くで見ていた。不遜なようだが、間に合うのだろうかと心配な気持ちにもなった。ついに、出来上がった。周回道路を横切って、Hヴィレッジの共用棟に向かう横断歩道は「H VILL」の文字をあしらっている。神事を終えて、ピカピカの寮のなかを見学した。個室や共用スペースには家具が置かれ、学生たちがやって来るのを待っている。いまはがらんとしているが、数週間もすれば、賑やかになるはずだ。

まずは、スーツケースひとつでだいじょうぶだろう。一人ひとりの期待や不安は、この「ヴィレッジ」とともに、キャンパスの歴史をつくってゆく。いよいよ、「あたらしい日常」がはじまる。