みかえり

2023年12月31日(日)

「三密回避で、ステイホームで」がお笑いのネタになり、「五類に移行してからはじめての年末年始」がニュースで連呼される。デパ地下も駅も人であふれている。行く年来る年である。

毎年、暮れのこの時分には、一年をふり返るための旅をしている。何をするでもなく、とにかくのんびりして食べて飲んでぐっすり眠って。慰労と年忘れのちいさな旅だ。じつは、この旅も3年ぶり。今回は、山あいにある温泉宿に出かけた。まちの喧噪をしばし抜け出して、くねくねとした山道を走ると気温がぐっと下がった感じがした。地面には雪。
硫黄のにおいと湯けむりにつつまれて、ぼんやりする。この一年、というよりこの四年くらいのあいだに、いろいろなことが起きた。起きすぎた。重なるときには重なるものだと、不思議にさえ思う。
悲しい別れがいくつもあった。もちろん、素敵な出会いもあった。別れがもたらしてくれた、あたらしいつながりもある。これから、一つひとつを大切に受け容れて、身体になじませていこう。食前酒からデザートまで、ひさしぶりに時間をかけて食事をする。名泉らしく、肌がすべすべになった(ような気がする)。

翌朝、看板の文字に誘われて「回顧の吊橋」に立ち寄った。険しい道をすすむと、吊橋があった。「回顧」と書いて「みかえり」と読む。橋の中ほどまで行くと、急に景色が広がった。真下を見るとコワいので、目線を遠くに向ける。美しい渓谷に、見入ってしまう。「みかえり」は、去る旅人が、(美しい景色を)ふり返らずにいられないことから名づけられたそうだ。惜しむ気持ちをかかえながら、みかえりながら、旅を続ける。ずっと留まっているわけにもいかない。回顧は、ほどほどに。まもなく、あたらしい年がやって来る。

本年も大変お世話になり、ありがとうございました。穏やかな年末年始をお過ごしください。(喪中につき、新年のごあいさつは控えさせていただきます。)🙇‍♂️

ありがとうございました。

2023年10月1日(日)

9月末をもって、大学院政策・メディア研究科委員長を退任することになりました。2019年10月より2期4年間、在任中は大変お世話になり、ありがとうございました。略式ながら、ここで感謝を申しあげます。

いずれ、ゆっくりふり返ってみようと思うのですが、だいたい月に1回のペースで開かれる研究科委員会の議事進行が、この4年間の生活リズムをつくっていたように思います。数えてみたら、これまで合計で46回(臨時に開かれたものもふくむ)。そのうち、最初の4回は大会議室で(対面で)開かれましたが、2020年度からは、すべてオンラインに切り替わりました。毎回、80名ほどの先生がたが出席する会議で、もちろん対面であっても議事進行はあれこれと大変なのですが、画面越しにどのように会議をすすめるのか。研究科の会議にかぎらず、学生たちの発表はどのように実施するのか。不慣れなこと、初めてのことが多すぎて、なかなか大変でした。
たとえば学位審査にかかわる議事の場合には、遠隔で「決を採る」必要があるので、その仕組みを整えなければならない。当時、補佐をお願いしていた先生がたにお世話になりながらやり方を工夫し、いまにいたっています。中間発表のポスターセッションは、Gather.townを使うことにしました。学生も教員も、ちいさなアバターになって、ちょこちょこと発表会場を動き回っていました(修士課程の発表は、すでに対面での実施に戻っています)。
けっきょく、COVID-19の影響が思いのほか長引いてしまい、大学院そのもののこと、とりわけカリキュラムのことは、本格的に着手できないまま任期を終えることになりました。なにより、見たり聞いたりするのと、実際にやってみるのとは大ちがい。「研究科委員長」という肩書きをもつと、かえってやりづらいこともたくさんある。それを実感できたことも、じぶんにとっては、よい経験でした。

9月いっぱいで任期を終えることが決まったので、(不遜なことながら)8月、9月は「消化試合」みたいに少しずつ楽になっていくだろうと期待していたのですが、その想いは脆くもくずれ、いろいろな「事件」が多発して、むしろドタバタと忙しく過ごしていました。そうこうしているうちに、研究科委員長室の片づけもできないまま9月も終盤に。(文字どおり)ギリギリの9月30日は、朝から晩まで部屋を片づけました。
研究科委員長室は、(キャンパスへの立ち入りが禁じられていたこともあって)最初の1年くらいはあまり使うことができませんでした。なんだか壁がさびしい感じだったので、学生たちとすすめているフィールドワークの成果を提げることにしました。全国のまちを巡り、訪れた先で出会った人びとの話を聞き、一人ひとりの表情をとらえたポスターをつくるというプロジェクトを、ここ10数年ほどつづけています。ポスター(もともとはA1サイズで出力しているもの)を縮小して並べ、タペストリーのようにして印刷しました。壁に提げると、「執務室」はとてもカラフルになりました。オンライン会議でご一緒したかたは、ぼくの「背景」にポスターが映っているのを見たことがあるかもしれません。

オンライン会議の議事進行は、孤独です。チャット欄にはいろいろ書き込まれるし、ダイレクトメールも容赦なく届きます。なるべく落ち着いた雰囲気を保とうとしつつも、忙しない。予期せぬかたちで紛糾することもあるし、ぼくの理解不足が露呈してしまうこともあります。不思議なことに、部屋を片づけていると、いくつかの会議の場面を思い出しました。壁に提げていたポスターをはずすと元の真っ白な壁に戻り、ぼくの「背景」には、ずっとポスターの人びとの表情があったことにあらためて気づきました。そうか、文字どおり、みなさんがぼくの「バック」にいてくれたのか。たった一人で部屋にいたのではなく、400人ほどの「ふつうの人びと」とともに、会議に向き合っていたのだ。そう思うと、なんだかうれしくなりました。

よろこばしい出会いも、そして辛い別れもありました。それでも、できるだけ地に足をつけていようと心がけていました。「事件」は現場だけではなく、会議室でも起きています。いつでも、どこでもハプニングがあって、お話しできないこともたくさんあるのですが、ひとまず、ぼくの任期はおしまいです。心残りもありますが、「ふつうのおじ(い)さん」に戻りたいと思います。もういちど、ありがとうございました。🙇🏻

やめること

2023年9月26日(火)

SOURCE: やめること|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

もうすぐ秋学期がはじまるというのに、いまだに暑さから解放されそうにない。さすがに朝夕は少ししのぎやすくなったが、今年の夏は本当に暑かった。閑散としているキャンパスも、ほどなく賑やかな雰囲気になるはずだ。大学生の夏休みは長い。長い分だけ、いろいろと考える機会が増えるのだろう。たとえば、あらためて進路のことを考える。「卒業プロジェクト」をまとめる段取りも重要だ。インターンや就職活動が現実味をおびてくる。なかには、休学を希望する学生もいる。
この時期になると、学生からいろいろと相談を受ける。迷ったり悩んだりするのは、学生の特権だ。一人ひとりの事情はことなるが、話をしていると、やりたいことがいくつもあって、どれをえらべばよいのか決められずにいる場合が多い。目の前に選択肢がいくつもあるのは、素晴らしいことだ。さまざまな可能性があるのだから、いろいろと試してみればいい。もちろん、現実的に考えることは大事だが、夢に向かって踏み出してみるのがいいと思う。だから、ぼくは常識的なアドバイスをするだけで、あとは本人が決めるよう促すことにしている。なるべく、背中を押す。
だが、たんに「猶予期間」を延ばしたいだけなら、休学はあまり勧められない。休学するなら、「とりあえず」休んでみるのではなく、前向きな理由があればと願う。あれもやりたい、これも可能性がある。大いに欲張りつつも、何に注力するのか、覚悟をもって決めることが大切だ。復学後のことなどあまり考えず、退路を断って向き合う。決めることはえらぶことで、えらぶことは(他の可能性を)手放すということなのだ。

先ほど特権と書いたが、じつは、迷ったり悩んだりするのは学生だけではない。誰でも、幾つになっても、ふと立ち止まるときが訪れるはずだ。数か月前に、『Quitting(邦題:やめる力)』という本を読んだ。啓発書の類いは、何にでも「〜力」をつけがちだ。本を一冊読んだくらいで、何らかの能力が格段に開拓されるわけでもないだろう。そう思って、やや訝しい目で読みはじめたのだが、頭がすっきりと整理されるようだった。著者は、さまざまな分野の人びとに「やめた」経験を丁寧に聞き、そのなかから「やめる」ことの本質に近づこうとする。
いうまでもなく、「やめる」ことは、何かを手放すことだ。事情はいろいろあるが、変化や成長のためには、何かに別れを告げ、何かをえらびとらなければならない。問題は、前向きな気持ちで何かを手放しているはずなのに、その判断に後ろめたさを感じてしまうことにあるという。熟考のうえ「やめる」と決めていても、なぜだか自分を責める。それは、「もう少し諦めずに、がんばって最後までやり通すべきだ」「思うようにいかないのは、自分の努力が足りないからだ」「周りからの期待にこたえなくてはならない」などという想いにつまされて、なかなか「やめる」決断ができないからだ。体裁や面子ばかりを気にして踏み出せないとしたら、それは、変化のきっかけを自らが奪っていることになる。惰性や弛みがある場合も、「やめる」決断はしづらい。無自覚に慣例にならい、現状維持をくり返しているだけでは変化は生まれないだろう。「やめる」ことこそが変化の源泉なのだから、「やめる」ことを失敗だと思わなくていい。同書は、「やめたいときにやめられれば、人生の可能性は広がる」と説く。

人とのかかわりも、そうだ。ぼくたちの毎日は、つねに複雑な関係のなかにある。幾重ものやりとりを続けながら、出会いをよろこび、別れを惜しむ。何かを手放すことはそう簡単ではないし、一時的な不安や戸惑いはつきものだが、「やめる」ためは、つぎへとすすむ覚悟を必要とする。そして、別れは慣れ親しんでいた社会関係を組み替える。
学問も、そうだ。この「おかしら日記」を書きながら、ずっと大学のこと、学究のこと、より具体的にはSFCのことを考えてきた。そもそもSFCは、あたらしい知のありようを模索し、従来のやり方を「やめる」ことからはじまった。古い概念を手放すことで、前にすすんできたはずだ。あらためて、数年前に『三田評論』(2020年10月)に書いた拙文「これまでのSFC、これからのSFC」を読み直してみた。ぼくたちが、ずっと「やめる」ことなく続けていることは何か。それは、なぜか。30数年前にはじめたことのいくつかを、潔く「やめる」ことによって、あたらしい景色に出会えるのではないか。ぼくたちの「やめる力」が試されている。