やめること

2023年9月26日(火)

SOURCE: やめること|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

もうすぐ秋学期がはじまるというのに、いまだに暑さから解放されそうにない。さすがに朝夕は少ししのぎやすくなったが、今年の夏は本当に暑かった。閑散としているキャンパスも、ほどなく賑やかな雰囲気になるはずだ。大学生の夏休みは長い。長い分だけ、いろいろと考える機会が増えるのだろう。たとえば、あらためて進路のことを考える。「卒業プロジェクト」をまとめる段取りも重要だ。インターンや就職活動が現実味をおびてくる。なかには、休学を希望する学生もいる。
この時期になると、学生からいろいろと相談を受ける。迷ったり悩んだりするのは、学生の特権だ。一人ひとりの事情はことなるが、話をしていると、やりたいことがいくつもあって、どれをえらべばよいのか決められずにいる場合が多い。目の前に選択肢がいくつもあるのは、素晴らしいことだ。さまざまな可能性があるのだから、いろいろと試してみればいい。もちろん、現実的に考えることは大事だが、夢に向かって踏み出してみるのがいいと思う。だから、ぼくは常識的なアドバイスをするだけで、あとは本人が決めるよう促すことにしている。なるべく、背中を押す。
だが、たんに「猶予期間」を延ばしたいだけなら、休学はあまり勧められない。休学するなら、「とりあえず」休んでみるのではなく、前向きな理由があればと願う。あれもやりたい、これも可能性がある。大いに欲張りつつも、何に注力するのか、覚悟をもって決めることが大切だ。復学後のことなどあまり考えず、退路を断って向き合う。決めることはえらぶことで、えらぶことは(他の可能性を)手放すということなのだ。

先ほど特権と書いたが、じつは、迷ったり悩んだりするのは学生だけではない。誰でも、幾つになっても、ふと立ち止まるときが訪れるはずだ。数か月前に、『Quitting(邦題:やめる力)』という本を読んだ。啓発書の類いは、何にでも「〜力」をつけがちだ。本を一冊読んだくらいで、何らかの能力が格段に開拓されるわけでもないだろう。そう思って、やや訝しい目で読みはじめたのだが、頭がすっきりと整理されるようだった。著者は、さまざまな分野の人びとに「やめた」経験を丁寧に聞き、そのなかから「やめる」ことの本質に近づこうとする。
いうまでもなく、「やめる」ことは、何かを手放すことだ。事情はいろいろあるが、変化や成長のためには、何かに別れを告げ、何かをえらびとらなければならない。問題は、前向きな気持ちで何かを手放しているはずなのに、その判断に後ろめたさを感じてしまうことにあるという。熟考のうえ「やめる」と決めていても、なぜだか自分を責める。それは、「もう少し諦めずに、がんばって最後までやり通すべきだ」「思うようにいかないのは、自分の努力が足りないからだ」「周りからの期待にこたえなくてはならない」などという想いにつまされて、なかなか「やめる」決断ができないからだ。体裁や面子ばかりを気にして踏み出せないとしたら、それは、変化のきっかけを自らが奪っていることになる。惰性や弛みがある場合も、「やめる」決断はしづらい。無自覚に慣例にならい、現状維持をくり返しているだけでは変化は生まれないだろう。「やめる」ことこそが変化の源泉なのだから、「やめる」ことを失敗だと思わなくていい。同書は、「やめたいときにやめられれば、人生の可能性は広がる」と説く。

人とのかかわりも、そうだ。ぼくたちの毎日は、つねに複雑な関係のなかにある。幾重ものやりとりを続けながら、出会いをよろこび、別れを惜しむ。何かを手放すことはそう簡単ではないし、一時的な不安や戸惑いはつきものだが、「やめる」ためは、つぎへとすすむ覚悟を必要とする。そして、別れは慣れ親しんでいた社会関係を組み替える。
学問も、そうだ。この「おかしら日記」を書きながら、ずっと大学のこと、学究のこと、より具体的にはSFCのことを考えてきた。そもそもSFCは、あたらしい知のありようを模索し、従来のやり方を「やめる」ことからはじまった。古い概念を手放すことで、前にすすんできたはずだ。あらためて、数年前に『三田評論』(2020年10月)に書いた拙文「これまでのSFC、これからのSFC」を読み直してみた。ぼくたちが、ずっと「やめる」ことなく続けていることは何か。それは、なぜか。30数年前にはじめたことのいくつかを、潔く「やめる」ことによって、あたらしい景色に出会えるのではないか。ぼくたちの「やめる力」が試されている。

リア充(っていうことなのか)

2023年7月26日(水)

カレンダーをめくることもなく、7月も中旬になってしまった。春学期、とくに後半は慌ただしくて、気づけばもう学期末である。最後に「マンスリー」を書いたのがゴールデンウィークのころだったので、ずいぶん空いてしまった。その間、いろいろなことがあった。
ゴールデンウィークが明けて数週間で、「学期前半科目」が最終回をむかえた。全7回という設定なので、5月中にひと区切りになる。短期集中で学ぶのは悪くないのだが、授業のまとめや採点の業務も必要になって、にわかに仕事量が増える。5月は、3回残留。そして6月に。今学期は、多くのことが対面になった。ぼくとしても、(これまでの反動もあって)意識的に外に出かけたり、人に会ったりするように動いている。外食も増えた。動けずにいた期間が長かったせいか、(いまさらながら)身体の使い方がよくわからないような、そんな感覚をいだきながら過ごしていた。

6月は、すべての週末に「行事」があった。まず、最初の週末は山口へ。学生たちとともに全国のまちを巡る活動は、もう20年近く続いている。あるタイミングで47都道府県の踏査が目標になり、いろいろな場所に出かけている。残り7府県というところまできて、COVID-19の影響を受けて身動きが取れなくなった。昨年の秋くらいから少しずつ活動範囲が広がり、今学期はずいぶんに自由になった。結局のところは、遠距離の府県が「未踏」になっていて、この春は山口県に行くことにした。
さすがに「飛び込み」で、まちの調査をすることはできず、知人を介して山口大学の鍋山先生との接点ができた。事前にオンラインでやりとりして、山口で実習ができることになったので、「本番」に先だって下見の旅行をした。6月最初の週末は、東岐波(宇部市)へ。お世話になるかたがたに挨拶をして、細かいことを相談した。海辺のコンテナハウスの宿で、穏やかに過ごした。

第2週の土日は「日本生活学会」が開かれ、ひさしぶりに対面で学会に参加した。やはり、対面だと気分がちがう。年に1回、同業者たちと顔を合わせて語らう。シンポジウムや口頭発表もいいのだが、ちょっとした立ち話が楽しい。少し大げさだが、お互いに元気に生きのびていたことを確認するような、そんなあいさつの場面がいくつもあって、少しずつ身体のなかにうるおいを取り戻しているような感じがした。学生とポスター発表に2件。ポスターセッションは、ゆっくりと話ができるのでいい。

第3週目は、大阪へ。昨年に引き続き、「慶應大阪シティキャンパス」で学部と大学院の説明会を開くことになっていたので、前ノリ。学部長とともにあれこれと話をしながら食事をした。近畿は5月の末にすでに梅雨入りしていて、蒸し暑い。翌朝は、いちおうスーツにネクタイで説明会に臨んだ。大学院の説明会は学部にくらべるとコンパクトで、それでも出願を考えている人で、席はほぼ埋まっていた。個別に話をした印象では、社会人入学を検討している人が多かった。説明会は滞りなく終わって、帰京。前の晩の店の冷房が効きすぎていて(本当に震えるほどだった)、それでなんだか体調がおかしくなったようだ。といいつつ、少しずつ回復。

そして第4週は、ふたたび東岐波へ。これが「本番」である。加藤研から参加の学生たちは17名ほど。現地で合流し、さらに、今回ご一緒することになった山口大学の鍋山ゼミの学生たちも10数名。かなりの大所帯で集うことになった。天気にも恵まれ(じつは、ぼくたちがフィールドワークを終えて戻った翌週あたりから中国地方は大雨だった)、充実した実習になった。
今回は、とにかく宿のロケーションがよくて、30名くらいの学生たち(加藤研+鍋山研)で海のそばでバーベキューを楽しんだ。肝心の成果のほうも無事にまとめることができた。ここ数年、いろいろと工夫をしながらフィールドワークの実習を試みてきたが、ここまで開放的な気分で過ごしたのは、おそらく2019年の冬以来のことだ。

こうして、6月はじつに「リア充」な週末を送りつつ、もちろん平日は授業や会議などの予定が詰め込まれていたわけで、6月は3回残留した。クルマを車検に出したり、病院の検査があったり、あらためてカレンダーを見直すと、ずいぶん動いた。クルマは11年目に入ってあちこち修理や調整が必要になったが、もはや大事な相棒なので、もう少し乗ることにした。まもなく160000キロになるが、まだしばらくだいじょうぶそうだ。

そして気づけば7月。最初の週末は七夕祭だった。模擬授業を頼まれていたので土曜日はキャンパスへ。いろいろ学生に頼まれる機会はあるが、七夕祭での模擬授業は初めてだった。そもそも聞きに来る人はいるのか、何人くらい来るのか、30分で何を話せばいいのか。わからないことばかりだったので、いちおう2つ話を準備して、現場のようすで決めることにした。
朝から雨模様だったが、七夕祭も「制限なし」で開催されるのはひさしぶりのことだ。午後になると雨が上がり、陽も差す感じだった。花火は上がるらしい。ぼくは、役得でVIP席(学生ラウンジの上)で空を見上げた。他にも報告すべきことがあるが、ひとまず7月に書く「マンスリー」はこのくらいにしておこう。

とにかく暑い日が続いている。七夕祭の晩に撮った写真を見ていて、なんだか不思議な感じがした。カモ池のまわりにこんなにたくさん学生がいて、かなり「密」だし、(それなりに)大きな声を出しているし、マスクもしていない。じぶんの活動量が格段に増えていることもふくめて、急激に日常が変わったことを実感する。この数年を「なかった」ことにはできないし、そんなつもりもないのだが、とにかく身体を上手になじませないとダメだな、と思う。

写真は7月1日。花火を待つ。

サボってみる

2023年7月18日(火)

SOURCE: サボってみる|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

暑い夏が来た。今年も「未来構想キャンプ」が開かれる。第1回が2011年だから、今年で13回目になる。ぼくは、ワークショップを担当したり全体の記録をおこなったり、初回からほぼ皆勤である。COVID-19の影響下でも、開催が見送られることはなかった。2年間のオンライン開催を経て、昨年から対面での実施に戻った。続けてきたおかげで、高校生たちと出会い、一緒に半日(昨年は宿泊型だったので一泊二日)を過ごすのが、年に一度の恒例行事になっている。
ワークショップは、いわゆる「模擬授業」とは大きくちがう。直接体験こそが学びの源泉であるという考えにもとづいて、闊達に語り合い、頭も身体も動かして、現場のなかから知恵やことばを紡ぎ出す。濃密な時間が流れるのだ。今年は、キャンパスで4つ、さらにキャンパスの外でも2つ(長崎、鳥取)のワークショップが開催される予定だ。

ぼくは、若新雄純さん(政策・メディア研究科 特任准教授)とともに、「サボりワークショップ」を担当する。じつは、この企画は2020年、2021年に続く3回目となる。せっかくなので、「サボりワークショップ」について少し紹介しておこう。一般的には「サボる」ことは、あまりよくないことだと思われているはずだ。やるべきことがあるのに、よそ見をしたり気を抜いたり、「本筋」から外れるような怠惰なふるまいとして理解されている。参加者の多くは、わき目もふらずに自分の目標に向かってすすむように心がけているにちがいない。だから、「サボる」のは、きっと不本意な行動だ。
「サボりワークショップ」では、あらかじめ決められた「時間割」どおり、各時限に担当教員が授業をおこなうことになっている。これは、高校生にとって親しみのある光景だろう。参加者は、それぞれの授業において「授業を受ける生徒」の役割を演じることになる。いっぽうで、「サボる」が主題のワークショップであるから、授業中という状況からどのように抜け出すかについて考えることにもなる。つまり、「授業を受ける生徒」であると同時に「授業をサボろうとする生徒」の役割も演じなければならないのだ。

このように、複数の役割があたえられ、不思議な葛藤が組み込まれたワークショップなので、当然のことながら参加者は困惑する。ワークショップの主題が「サボる」なのだから、賢明な参加者は「サボる」ことこそが高評価をえることだと考えるかもしれない。そのままおとなしく授業を聞くか、それとも授業を抜け出すか。たとえば2020年度に実施した「サボりワークショップ」の参加者は、ワークショップでの自身のふるまいをふり返りながら、つぎのような感想を述べていた。「授業自体に興味があったので受けていたけど、サボりたかった」「…授業だから、先生の準備時間のことを考えるとサボれなかった」「そもそもWS自体をサボろうかと考えていた」「サボるのが正解だと思ってそのままサボった」「途中から明らかに人数が減っていておかしいと思っていた」など、いろいろな想いでワークショップに向き合っていたようだ。
「サボりワークショップ」でどのようにふるまうかは、一人ひとりの参加者の判断に委ねられている。もちろん、唯一の正解はない。一緒にいる参加者たちのようすをうかがいながら、ときには同調的な圧力を感じながら、時間を過ごすことになる。

いうまでもなく、参加者たちを悩ませることは目的ではない。こうした設定でワークショップをおこなうことで、日常的に「あたりまえ」だと感じている授業や教室のありよう、時間の流れ方などを、あらためてとらえなおしてみたいのだ。授業中は、前を向いて座って先生の話を聞く。決められた時刻になると授業が終わり、少し休憩すると次の授業がはじまる。じつに規則的で、ムダを省くように設計された仕組みだ。ぼくたちは、そのやり方に慣れすぎている。「サボり」は、この「あたりまえ」のやり方を問いなおすきっかけとして位置づけている。

ふと窓の外に目をやったり、ノートに絵を描いたり。ささやかな「サボり」への欲求は、ごく自然に生まれてくる。「サボる」ことは、やるべきことからの逃避だと思われるかもしれない。だが、その欲求をただちに悪いこととして理解しなくてもいいはずだ。何かの目標に向かってすすんでいるとき、ぼくたちは、さまざまな「余白」をそぎ落とそうとする。その、そぎ落とされた「何か」の価値を知ろうとするのは、意味のあることだ。
なにより、「時間割」も教室も、授業のありようも、「あたりまえ」をつくって維持してきたのは、ぼくたちなのだ。そのことを実感し、これからの変化に活かすためにも、みんなで大いなる「サボり」を企ててみたい。