まったりした

2023年5月23日(火)

SOURCE: まったりした|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

10分前に、アナウンスをした。午後8時をむかえると、以降はPCやスマホを利用せずに過ごすことになる。できるなら、電気(Denki)、電波(Denpa)、デバイス(Device)の「3D」をすべて遮断してみたかったのだが、いきなり部屋を真っ暗にするわけにもいかず、建物のさまざまな設備が電気仕掛けで動いていることを考えると、ひとまずPCとスマホをオフにしておくだけでいいだろう。カウントダウンとともに、「実験」がはじまった。

今学期担当している「SBC入門」という授業の一環で、この日は「まったりする」というテーマを設定した。この授業は複数の教員で担当していて、初回(オリエンテーション)と最終回(講評とふり返り)にはさまれる各回は、担当教員がそれぞれのアイデアで授業内容を構成する。集中的に開講される「学期前半」科目なので、5月末には終了することになる。特徴的なのは、「SBC」つまり「Student Built Campus」の精神(未来のキャンパスは自分たちでつくる)の表れである滞在型の教育研究施設について、その施設を利用しながら考えるという点だ。もちろん、滞在(宿泊)することだけが目的ではないが、現場での直接体験をとおして学ぶのだ。そのため、この授業は18:00過ぎ(時間割だと5限後)にはじまって、翌朝に解散するという仕立てになっている。

ぼくの担当は、「学期前半」でも終盤にあたるため、これまでに開講された授業のようすがSNSなどに掲載されるのを眺めつつ、内容を再考した。ずっと「ステイホーム」が続いて、その反動なのだろうか。あるいは、もともとこのキャンパスに流れている気風なのだろうか。学生たちの動きは、とにかくせわしない。次々と目の前に出てくる課題をこなし、いつも提出期限に追われている。深い思考や内省的な時間をつくることさえままならず、なんだか浮ついた感じで日々を送っているようにも見える。
地に足をつけて、(借りものではない)自分のことばで語り合うこと。そのためのひとつのきっかけが「まったり」である。ぼくなりに届けたいと思っているメッセージは、届いているのだろうか。とりわけ「スロー」を標榜しているわけではないが、穏やかな時間を過ごして、身体と心を整えることに向き合ってみようと思った。

学生たちには、「3D」に頼ることなく「穏やかでこくのある時間を味わう」ことが目的であること、そして「基本、静かにゆっくり過ごします。下品に大声で笑ったり、激しく身体を動かしたりするのは言語道断(もってのほか)です」「20:00以降に可能なことは、代表的なものとして、おしゃべりする、お茶を飲む、文章を書く(手書きのみ)、本を読む、寝るなどです」といったガイドラインを事前に送っておいた。
じつは、「まったり」の時間がはじまった直後に、思わずポケットからスマホを取り出している自分に気づいた。そのようすは学生に目撃されてしまったが、慌てて「機内モード」に変更してカバンに入れて、翌朝までPCもスマホも使わずに過ごした。

夜がふけていくにつれ、学生たちのふるまい方は、概ね4つくらいに分かれていったように見えた。いずれも想像していたもので、それほど驚く出来事はなかった。まずは、早々にベッドに入る学生。これは、究極の「まったり」なのだろうか。教室なら授業中の居眠りはマイナス評価だが、滞在棟で行われている「まったりする」実習なのだから、さっさと寝てしまうのは、きっと正しいのだ。
つぎに、事前の連絡をふまえて、マンガや小説、スケッチブックなどを持参していた学生たち。読書をしたり絵を描いたり、それ自体は一人で向き合っているのだが、広間で周囲の気配を感じながら過ごすのは悪くない。バラバラのようで不思議な安心感や一体感が生まれて、「まったり」感が部屋を満たす。
また、最初のうちは「まったり」を受け入れようとしていたものの、すぐにそれを放棄して(あるいは耐えられなくなって)、みんなで賑やかにゲームに興じるような動きもあった。学生たちが宿泊を前提に集っているのだから、容易に想像できる展開ではあったが、ガイドラインを無視して大声ではしゃいでいる。たしかにゲームは人と人をつなぐはたらきをする。だが、静かに穏やかにおしゃべりができないのは、なぜだろう。その幼さにいささか呆れながら、ようすを眺めていた。
さらに、「まったり」と話をしながら過ごす学生たち。すでに、自然発生的にいくつかの集まりができていて、それぞれの場所でおしゃべりがすすんでいた。ぼくも、取材のコツから留学していたころの話、そして恋バナまで、いろいろな話をした。やがて、授業や「研究会」のありようについて、さらには一人ひとりの生きざまや将来への不安などが話題になった。

あらかじめ「日付が変わるころには寝ます」と記しておいたが、学生たちとのおしゃべりの時間は、しばらく続くことになった。だんだんと眠くなってきて、そろそろかな…と頃合いを見はからっていると、あたらしく誰かが輪に加わってくる。それを合図に話を終えるわけにもいかず、もう少し話す。そのくり返しだから、終わりは見えない。ひとしきりおしゃべりをしながら過ごしているので、すでに緊張感は解けて、身体の疲れ具合と相まって、ちょっとした心地よさを味わっていた。けっきょく、午前2時を過ぎるころまで、学生たちとあれこれとおしゃべりをしていた。

「まったり」の本質は、義務感や生産性から解放されることだ。はじまりも、終わりも決まっていないおしゃべりの時間は、じつは、わざわざつくり出すものではない。だから、「まったりする」ことが「課題」として設定されること自体が、じつは妙な話なのだ。誰かと、のんびりと話をする。一緒に「いる」だけでもいいだろう。そこから、相手に対する関心や、長きにわたってかかわり合おうという感情が生まれてくる。キャンパスには、「まったりする」時間こそが必要だ。