一段落

[13] 2020年8月14日(金)

ここ2週間ほどは、慌ただしく過ごしていた。この状況下で、学生たちは課題が多くて大変だということが話題になっていたので、提出期限をギリギリまで遅らせたのだが、その分、採点のための時間が短くなってしまった。ようやく、採点が終わって一段落。
ここ数日は、猛暑である。
今学期は、いろいろと考えさせられることが多かった。夏休み中に整理するつもりでいるが、ひとまず、備忘をかねてふり返っておく。

13.1 オンライン「でも」できる

3月の中ごろに「オンラインで開講」という方向性が決まったものの、会議に時間を取られて、なかなか授業の準備をはじめることができなかった。日ごろ、フィールドワークやインタビューなどをおこなっているので、あれこれと制限される学期になることは容易に想像できた。くわえて、グループワークを中心に組み立てている授業も、どうすればいいのか。いっそのこと春学期は休講にできればと考えたくらいだが、なにぶん先が読めない。教室で机を囲んでディスカッションをするような状況をオンラインで再現することはあきらめて、早々に「〜ぢゃない」という宣言をした。例年とはちがう授業のつもりで、でもCOVID-19を必要以上に「言い訳」にしないことを意識しながら授業を再構成した。
すでに「オンライン化って、」(2020年4月9日)で触れたように、オンライン授業は、以下の3つの視点から性格づけることができる。

ネットでしか提供できない教育
ネットでも提供できる教育
ネットでは提供できない教育
宮崎耕(2002)*1

まず、大まかな結論。オンライン「でも」できることは、いろいろある。やはり、実際にやってみなければわからないことはたくさんあるわけで、一学期間オンラインで授業を試みたことで、その可能性を実感した。だからオンライン「でも」できるなら、緊急対応のような位置づけではなく、開講形態を多様化するという意味でオンライン開講の授業をつねに提供するのがよいだろう。これについては、時間割や教室の配当のことなどとも連動しているので、いろいろ調整すべきことがある。
やはり大事なのは、オンライン「では」できない授業をどうするのか。この数か月、ストップしてしまっている「学び/学び方」があることも確かだ。どうにかして、少しずつでもキャンパスに戻せるように(現実的に)動きたい。
そして、春学期の体験をとおして、ぼくたちはオンライン「でしか」できない授業に向き合った(そうせざるをえない状況だった)。まずは、(ひと休みしてから)今学期のさまざまな努力や工夫の一つひとつを共有して、あらためて授業のあり方について考えることだ。

13.2 丁寧に、あるいは冗長になる

これまで、遠隔で会議に参加することはあったものの、学期をとおして全回オンラインで授業をするのは初めてのことだった。いまの職場ですでに20年近く講義を担当しているので、学生のふるまいも、90分という授業時間の流れも、「教室」の雰囲気も、身体で理解していることは少なくない。良くも悪くも、慣れている(と自覚していた)。
だから、ごく自然に、これまでの感覚を頼りに講義資料を準備し、毎回の授業を組み立てた。だが、ほぼ毎回、時間が足りなくなった。これまで、間が持たない(しゃべることがなくなって、気づかれないように即興的に内容を考えて対応する)状況こそあれ、時間が足りなくなることはあまりなかった。少しずつ調整を試みたが、あまり大きく変わらなかった。いつも、何枚かのスライド資料を使わないまま、終了の時刻をむかえた。
オンラインだと、時間が足りなくなるのだろうか。その理由のひとつは、チャットかもしれない。教室とだいぶ勝手がちがうので、学生の反応(ふだんなら、直接、目の前で確認できる)を知る手がかりをえるために、毎回チャットを動かしておいた。講義資料を眺めながら、授業時間中はいつでも匿名で書き込めるというものだ。ぼくは授業をしつつ、もう一台のPCでチャットの流れを追っていた。匿名で書き込めるせいか、(ぼくの感覚からして)品性に欠ける書き込みも(ごくわずかだが)ある。いっぽうで、ぼくのしゃべっている内容について、絶妙なタイミングでコメントや質問が書き込まれることもあった。そんなときは、すぐにそれを話題にして質問に答えたり補足したりする。対面ではないが、直接、受講者とやりとりしている感覚になる。それは、心地よい。
話に熱中していると、チャットは流れていってしまうが、画面の向こうのようすが伝わってくるのがよかった。学生にも好評だった。もちろん、質問だけではなく、感情的なリアクションもチャットの画面に表示される。頷きも、ため息もチャットを流れるテキストから伝わってくるようだ。
とはいえ、教室にいるときは、つねに学生たちの反応(無反応という反応もふくめて)を目にしながら、反射的にふるまっている。だから、教員が一方向的にしゃべるような講義スタイルでも、じつは、かなり豊かな双方向のコミュニケーションが成り立っているのだ。おそらく、そうした反応を確認できない(オンラインの場合に何を手がかりすればよいのか、まだわかっていない)ために、何度も同じことをくり返し語っている可能性がある。よくいえば丁寧なのだが、これまでように時間に収まらないということを考えると、かなり冗長になっているのかもしれない。f:id:who-me:20200815162130p:plain

13.3 部屋は片づいた

しばらく、給油していないことにも気づいた。もちろん、行動が制限されているわけだから、クルマに乗る機会は激減している。ここ数週間は、ときどきキャンパスで仕事をするようにしているが、それでも、ほとんど家のなかで過ごしている。その間、オンラインの授業や会議に対応するために少しずつ家具の配置を変えたり、不要なモノを処分したり。おかげで、じぶんの部屋はもちろん、家がだいぶ片づいた。
今学期開講した「フィールドワーク法」では、実習の一環でまち歩きをすることは、できるかぎり控えるように指示することになった。そもそも、フィールドワークの本質は、不要不急の外出ではないかと思うが、そんな理屈はたぶん受け容れてもらえないだろう。せいぜい、最寄り駅の界隈や近所をフィールドとしてえらぶことくらいだ。結果として、大部分の受講生たちは、「うち(内/家)」に関心を向けて観察や記録をおこなった(講義の詳細については、別途まとめる予定)。この状況だからこそ、モノの配置、家族との時間・場所の調整など、さまざまな観点から生活リズムの変化をとらえる機会になったようだ。
何人かの同僚たちは、SNSなどで、自室がスタジオに変わってゆくようすを公開するようになった。スペックの高い機材を揃えながら、オンライン講義に嬉々として向き合っているように見える(もちろん、ぼくもふくめ、全教員がその流れに乗っているわけではない)。
「うち」への意識の変容は、たんに整理整頓がすすんだということではなく、もう少し広い文脈でとらえたほうがよさそうだ。教員にかぎらず、一部の学生たち(とくに大学院生)は、この数か月で自室の「ラボ化」をすすめてきたのだ。つまり、キャンパスに通わなくても、じぶんの部屋で、ある程度の作業ができるように環境整備をすすめていた。それは、いわゆる“ノマド”なスタイルとはちがう。逆に、移動しない/できない前提で、仕事をするということだ。ここで重要なのは、ちいさな「ラボ」が、ネットワークで接続されているという点だ。情報を共有し、データをやりとりしながら、「ラボ」どうしのゆるやかな連携によって研究環境が成り立つ。このヴィジョンは、しばらく前からあったはずだが、新型コロナウイルスの感染拡大によって、その実践に向けた動きが加速したといえるだろう。
これは、ぼくたちがキャンパスに何を求めるのか、キャンパスとは何か、というもっと大きな問いにつながっているはずだ。「うち」として閉じられていた空間・時間が、少しずつひらきはじめているのだ。研究分野によっては、キャンパス「でしか」実現できないことはたくさんある。そのいっぽうで、教員も学生も、ネットワーク化された自前の「ラボ」(つまり自宅/自室)で暮らすことになったら、キャンパスはどうなるのか。これは引き続き考えていきたい。

13.4 〈声〉を聴く

不自由になることはそのまま受け容れることにして、どうせなら、オンライン「でしか」提供できない授業について考えようと思った。たとえば、匿名性の問題。ビデオをオンにすれば、画面越しとはいえ顔を見ながら話ができる。その便利さはわかるが、オンラインであればこそ、(わざわざ)顔を見えないようにする。声を聞かないようにすれば、ジェンダーにかんする手がかりもなくなる。画面に表示される名前も、実名ではなく匿名(ハンドルネーム)にすれば、残されるのは、画面上に綴られるテキストだけになる。個人的な趣味も手伝って、今学期の「リフレクティブデザイン」では、実験的な授業を試みた(この講義についても、あらためて書くつもりだ)。
そうなると、ぼくは、一人で自室から、(どのような広がりをもっているのかもわからない)暗い海に向かって、ひたすらしゃべり続けるような想いになる。ラジオのパーソナリティーという仕事を想像する。さぞ孤独な時間になるだろうという予想に反して、むしろ楽しむことができた。
もちろん、こちらの授業でも、匿名で書き込むことのできるチャットを併用していたので、学生たちからの書き込みを眺めながらしゃべる。その場で反応することができれば、学生たちとの即興的なやりとりをしていることを実感する。いずれにせよ、ぼくは、じぶんの「商売道具」のなかでも、〈声〉が大切であることに、あらためて気づいた。
声質やしゃべり方が嫌だと(生理的にダメ、とか)言われたらそれまでだが、丁寧に語り、画面の向こうの誰かに〈声〉を届けようという意識が強くなった。この意識を持てるようになったことは、今学期の収穫だったように思う。名前も顔もわからない誰かを想定して、さまざまな手がかりを遮断して、〈声〉だけの状況をつくるからこそ、何を語るのか、何を伝えたいのかということに自覚的になれるように思う。
そして、チャットの画面に綴られるテキストでも、あるいは無反応であったとしても、それらをぼく以外の誰かの〈声〉として聴くことができるのではないか。まだまだ体験を重ねる必要があるが、いくつもの〈声〉を聴くための感性を磨くこと。その方法や姿勢のありように、いままで以上に関心が高まっている。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:宮崎耕(2002)「新たな教育システム:遠隔e-learningの試み」平成14年度教育の情報化フォーラム(私立大学情報教育協会)