「オンライン化」って、

[04] 2020年4月9日(木)

4.1 オンラインについて考える視点

4月7日、「緊急事態宣言」が出された。そして昨日は、文字どおり9時から5時まで、ずっとオンライン会議だった。授業のみならず、日常的な会議や打ち合わせも、すべて“Stay at home”ということになった。
ところで、もう20年近く前になるが、「新たな教育システム:遠隔e-learningの試み」という講演を聞く機会があった*1。宮崎耕さんの話はとても明解で、それをもとにじぶんの授業を見直して、あらためて「大学設置基準」に目をとおした記憶がある。大学間の授業連携や単位互換の動きがあり、さらにネットワークを介した遠隔授業も認められるようになった頃だ。その講演のなかで、印象的だった発表資料がある。宮崎さんは、遠隔e-learningを考えるさいの視点として、以下の3つを挙げていた。

ネットでしか提供できない教育
ネットでも提供できる教育
ネットでは提供できない教育
宮崎耕(2002)

なにより、オンラインの利便性が際立つのが「ネットでしか提供できない教育」だろう。距離を克服すること。遠く離れていても、つまり〈どこでも〉授業が成り立つということだ。いま「オンライン化」がすすむなかで、「同時配信」と「録画配信」が区別されているが、録画配信(オンディマンド)になれば、距離だけではなく、時間的な隔たりもこえて、自由に授業を届けることができる。配信先がスマートフォンなどのモバイルデバイスになることを考えれば、移動中に受講することもできる。教室と家との「あいだ」にある「モバイル科目」ともいうべき開講形態も考えられるだろう。空間と時間の再編成を際立たせるためには、さまざまなメディアを動員して、さらに「ネットでしか」を先鋭化させていくことになるはずだ。

「ネットでも提供できる教育」という目線で、授業をとらえることはとても大切だ。講演を聞いたときに、そう思った。「ネットでも」ということは、教室かオンラインか、「どちらでもいい」ということだ。「ネットでも」のなかには、授業は、本来であれば教室で開講されるべきものだという意味合いが反映されているのだろうか。ここ数週間、多くの大学が「オンライン化」への準備をすすめる動きを見せているが、これは、従来の講義を「ネットでも」提供しようという発想に後押しされているようだ。
ネットで提供される場合には、「面接授業に相当する教育効果を有すると認めたものである」*2ことが求められる。つまり、その「教育効果」さえ認められるなら(どのようにその「効果」を測るのか・測ることができるのかについては議論が必要だと思うが)、「ネットでも」よいのだ。だから、このさい、「ネットでも提供できる」科目は、諸規定で許される範囲で「オンライン科目」(あるいは「モバイル科目」?)」に位置づけてみるのはどうだろう。既存のカリキュラムをふり返り、見直すきっかけになるはずだ。
後述するが、いま向き合っているのは、教室でおこなっている授業を、そのまま「オンライン化」する(ネットを介して配信する)という単純な話ではない。ネットで提供する授業が、「面接授業に相当する教育効果を有する」かどうか。そして、そもそも授業の意味や価値は「教育効果」で語るべきものなのか。もういちど、問いなおすことが大事だ。

言うまでもなく「ネットでは提供できない教育」は、たくさんある。ぼく自身は、いささか危機意識が低かったこともあって、しばらくすれば、教室での授業が実現すると思っていた(期待していた)。そして、フィールドワークやインタビューのように、(家の)「外」で、人との緊密なコミュニケーションのなかで知識を獲得してゆく方法や態度を教える授業のエッセンスは、ネットでは提供できない(できるかもしれないが、ものすごく難しいのではないか)と考えている。
もっとわかりやすいのは、実技が前提となる「体育」だ。「外国語」を担当する先生がたはどうだろう。やはり教室ならではの臨場感や、身体的に受けとめる実感が欠かせないように思えるのだ。新学期をむかえるにあたって、どのような議論があったのか、どのように「オンライン化」について考えたのか、ぜひ(オンラインで)インタビューしてみたいと思っている。

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4.2 ネットでしか教育を提供できない

いま、ぼくたちが直面しているのは、ちょっと特殊な状況だ。〈オンキャンパス〉の可能性がなくなり、しばらくは“Stay at home”という状況が続きそうだ。必然的に、〈オンライン〉への依存度は高まっている。すでに、学生たち、そして同僚や事務スタッフとの日常的なやりとりは、Webexやzoomだけでなく、メールやLINEなどもふくめて、すべてがネットを介しておこなわれるようになった。郵便や宅急便を使えば、モノを届けることもできるが、それも、直接、実態的な文脈を分かち合うことにはならない。
つまり、(今学期の)大学の授業については、

ネットでしか教育を提供できない

ということだ。
決して大げさな話ではなく、もはや、この動きに逆らうことはできないだろう。「ネットでしか教育を提供できない」という大きな制約のなかで、あらためて大学について考える。この状況は、チャンスかもしれない。これほどの極端な状況であればこそ、あたらしい何かが生まれるのではないかと期待もする。だが、いっぽうでこの急激で不慣れな変化に戸惑い、不安を抱いている学生も(そして教職員も)いる。とりわけ新入生たちのことは、気がかりだ。大学生になったと思ったら、突然に日常が急変してしまったのだ。
同僚たちは、数週間後の授業開始に向けて、「ネットでも」授業ができるように、さまざまな工夫をしながら準備をすすめている。その前向きな姿勢には、本当に元気づけられる。ぼくも、この大きな変化を目の前に、あれこれと考えさせられている。グループワークはどうなるのか。フィールドワークやインタビューという方法は、この先どうやってすすめればいいのか。ぼく自身の試行錯誤については、別途紹介したい。

ここのところ、オンラインでの会議が増えてきた。冒頭で述べたように、昨日は9時から5時までオンライン状態だった。昼休み(といっても、家を出るわけではないが)を除いて、ずっと自室でPCに向き合っていた。これは、かなり疲れる。とりわけ、議事進行の役目があると緊張する。
ふだんの授業は90分。それなりの年月を大学教員として暮らしてきたので、教室でやることには慣れている(慣れすぎが心配になっているくらいだ)。授業の「オンライン化」は、その字句どおりに考えると、きっといろいろな問題が起きるだろう。たとえば、通勤・通学にかかる時間は圧倒的に節約されるので、「遅刻」は減るかもしれない。だが、通信環境の不具合があれば、接続に手間取ることは大いにありうる。音声が途切れてしまうと、同じ内容をくり返すことになる。教室での授業ではあたりまえのようにできることが、予期せぬ出来事によって遅れたり中断したりすることもあるはずだ。だから、出欠確認をはじめ、学生とのやりとり、時間のマネジメントにいたるまで、いままでの教室での経験にもとづく判断は、役に立たないかもしれない。

いまのところ、心がけるべきだと思っているのは、単純なことながら「ムリをしない」ことだ。まったくあたらしい授業のつもりで、あたらしい教授法を試すつもりで、オンラインの授業に臨もうと思う。教室のようにいかないのは、あたりまえのことだ。学生たちも、じぶんたちが置かれた状況をふまえて、ムリをしないのが一番。学生は、不慣れな教員たちがオンラインで提供する授業を、場合によっては、朝から夕方まで受講することになるのだ。日々のストレスも、上手く発散させたほうがいい。

(つづく) 

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:宮崎耕(2002)「新たな教育システム:遠隔e-learningの試み」平成14年度教育の情報化フォーラム(私立大学情報教育協会)

*2:参考:平成十三年文部科学省告示第五十一号には、当該授業を行う教室等以外の場所で履修させるための要件として「通信衛星、光ファイバ等を用いることにより、多様なメディアを高度に利用して、文字、音声、静止画、動画等の多様な情報を一体的に扱うもので、次に掲げるいずれかの要件を満たし、大学において、大学設置基準第二十五条第一項に規定する面接授業に相当する教育効果を有すると認めたものであること。」としている。