3年ぶり

2022年7月5日(火)

SOURCE: 3年ぶり|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

7月になった。あっという間に梅雨が終わり、猛暑の日が続いている。春学期は残すところ数週間、無事にここまできた。多くのことが、「3年ぶり」というフレーズとともに語られている。教室で対面の授業をすることさえ、あたらしい体験のように感じられるから不思議だ。
授業の開始時刻に合わせて研究室を出て、わずかな時間だが教室に向かってキャンパスを歩く。教室には学生が何名かいて、少しずつ席が埋まってゆく。そんなあたりまえだった光景も「3年ぶり」だ。学生たちの顔が、パッチワークのように画面に並んでいるのとはちがう。気温が上がって、マスクをしたまましゃべるのは苦しくなってきたが、やはり間近に体温を感じられるのはいい。

1か月ほど前、ネットのニュースで大学生たちの近況について書かれた記事を目にした。ずっと「ステイホーム」を強いられながら過ごしていたことで、学生たちは(もちろん教職員もだが)、すっかりオンラインに慣れてしまった。そのせいか、この春になって、対面での活動が増えてきたことへの戸惑いがあるという。同記事によると、対面授業への恐怖を感じる場合さえあるという。直接、人と顔を合わせる場面が少なかったために、人間関係にさほど気を使わなくなってしまったのだろうか。緊張で眠れないという訴えもあるらしい。
移動が制限され、「不要不急」の活動を控えるように言われ続けてきたので、人とのかかわりについても「不要不急」かどうかの判断がはたらく。学生たちは、わざわざ対面で会う「価値」があるかどうかを気にするようになったというわけだ。しばらく機会が奪われていたことへの反動で、いわゆる「コストパフォーマンス(コスパ)」を気にする傾向が強いという指摘もある。事情はわかるものの、ぼくたちがコミュニケーションへの欲求をいだくのは、「会ってみなければわからない」からだと思う。会う前に「価値」のあるなしを決めてしまうことなど、できるのだろうか。

最近「タイパ」ということばを知った。時間あたりの「価値」を判断する「タイムパフォーマンス」を指す。数年前から、映画を早送りで観たり、(全編を観る手間をはぶく)ダイジェスト版の映画(ファスト映画)を求めたりするふるまいが話題になっていた。COVID-19の影響下にあって、学生たちがオンディマンドの授業を(たとえば1.5倍速で)早送りで視聴しているというのも、どうやらそれほどめずらしいことでもないらしい。
最初は驚いたが、「タイパ」という意味では確実に時間の節約になる。自分もインタビューデータの文字起こしをするときなど、録音を早送りで聞くことがあるのだから、理屈はわからなくもない。90分の授業を60分で消費するのに慣れてしまったとすると、教室だと、もはやぼくたちの講義はゆっくりと感じられるはずだ。

同僚から、体育の授業(実技)で、学生たちのケガが増えているという話も聞いた。イスに座ってじっとしている時間が長かったために、身体の動かし方を忘れてしまったのだろうか。頭ではわかっていても、身体が言うことをきかない。ついムリな動きをしてしまう。自分だけならまだしも、誰かと競争したり協調したりする種目になると、相手の動きを読み取ることが難しいのだ。相手の身体から発せられるメッセージを読み取り、察し合いながら動くことが求められるとき、上手い関係が成り立たないと、加減ができずにケガにつながるのだろう。

ばらばらのようで、多くのことがつながっている。この2年間で何かが失われてしまったという焦燥感も手伝って、ぼくたちは、いままで以上に「コスパ」や「タイパ」を求めてはいないだろうか。画面越しにたくさんのやりとりをしてきたが、文字にすると、おのずとことば足らずになって、テキストは文脈から切り離されて流れてゆく。対面であれば、オンラインとはちがった感情表現もできる。クリックひとつで相手の姿が消えるわけでもない。「間(ま)」も「余白」もたくさんある。顔を見ながら、自分のことばを訂正したり言い換えたりすることもできる。

「3年ぶり」のことがたくさんあって、その一つひとつが懐かしくて新鮮だ。でも、急いてはならない。かくいう自分も、意識していた以上に威圧的で、一方的なメッセージを発していたことを思い知った。もちろん、これをCOVID-19のせいにすることはできない。ぼく自身の学び方、教え方、キャンパスの使い方、その礎となるコミュニケーションのありようについて、惰性や弛み、思い込みによって、大切にすべきだと思っていたことが見えなくなっていた。
COVID-19は、それをわかりやすく際立たせたにすぎない。だからこそ、細心の注意をはらいながら、少しずつ「3年ぶり」の身体を整えるのがいい。沈黙を味わい、ちいさな〈声〉を聴き、相手を察する(そして察しを察する)ことのできる身体を取り戻そう。

7月2日は、3年ぶりに対面で七夕祭が開催された。やはり、キャンパスを彩るのは学生なのだ。2年前のこの時期には『花火』というタイトルで「おかしら日記」を書いた。アバターになって、バーチャルキャンパスで花火を眺めたことを思い出した。
今年は、本館の屋上から。同僚たちと一緒だった。ことばを交わさなくても、すぐそばでみんなが同じ夜空のきらめきを見上げている。「コスパ」も「タイパ」も、花火の音とともに散ってゆくように思えた。