いまこそフィールドワーク

[07] 2020年4月25日(土)

7.1 フィールドワークは、どうしよう。

グループワークのほうは、いちおうの方針が立った。教室でのふるまいを、「オンラインでも」再現しようと試みるのではなく、あえてテキストでのコミュニケーションに特化してすすめてみることにした。
そして、もう一つ考えるべきは、フィールドワークである。授業にかぎらず、9年目に入った「カレーキャラバン」も、そして10数年続けてきた「キャンプ」も、「内(家)」にいるのではなく、「外」に出かけるのが前提だ。「フィールドワーク法」の授業では、教室で毎週の講義はあるものの、学生たちは、学期をとおしてちいさなフィールドワークの実習をおこなう。入門的な性格の授業なので、フィールドワークの練習のような位置づけになる。観察や記録が主体だが、人に話しかける場面もある。方法や態度としてのフィールドワークを、まさに〈現場〉で体験的に学ぶ(ことが期待されている)のだ。
学生たちは、たとえば昨年度は以下のようなテーマでフィールドワークをおこなった(一部を抜粋)。

  • パン屋での日常
  • 改札をぬける
  • 違法駐輪
  • 食品サンプル分布
  • マンションエレベーターの動き
  • タピオカ店人気の要因
  • 公園に潜む大人たち
  • ベンチを過ぎてゆく人々
  • カフェのお客さん
  • 車たちの定点観察
  • 我が家の冷蔵庫
  • 渋谷における今期の流行色の傾向
  • 中央林間のスーパーマーケットにおける時間のすごし方
  • 代々木公園内ドッグランにおける人々の動き
  • 仙川駅周辺カフェの客層調査
  • 電車内の過ごし方観察
  • 海の公園柴口駅の駐輪場の様子
  • 町田のキャッチの生態調査
  • スーパーの駐車場
  • ごみ置き場
  • 夜明け前のあずま通りの観察
  • 大宮駅西口デッキのベンチ

「フィールドワーク法」(2019年度春学期開講)より

こうした実習課題の面白いところは、一人ひとりがそれぞれの〈現場〉に出かけて観察・記録をすすめることで、そのレポートをとおして、ぼくたちの「見聞」も広まるという点だ。もちろん直接体験にはならないが、さまざまな問題意識のもと、多様な発見や気づきが紹介されることになるので、まるでじぶんの分身たちが、あちこちに出かけて、〈現場〉を追体験しているような気分になる。いくつもの個別具体的な話に出会いながら、ぼくの感性も少しずつ開拓されてゆくはずだ。

もちろん、まちを歩きたい。遠出もしてみたい。誰かと出会い、語りたい。フィールドワークやインタビューなど、これまで「あたりまえ」だと思っていた質的調査(定性的調査)の多くは、そもそも「三密」を前提に成り立っているようなものだ。ひとまずオンラインで開講しても、学期の後半になれば、教室での講義も、そして「外」での実習も、実施できるのではないか。わずかながらも期待していたが、どうやらそれは、かないそうにない。さて、どうしよう。

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7.2 じろじろ・あれこれ・いろいろ

「フィールドワーク」は、さまざまな領域で用いられているので、唯一のやり方があるわけではない。背後にある考え方も多様なので、いくつもの流派や作法のようなものがあると言っていい。これまで「社会調査法(定性的調査法)」や「フィールドワーク法」という科目を担当してきた経験にもとづいた、あくまでも個人的な考えだが、まず大事なのは、つぶさに観察し詳細に記録すること。そして、そのふるまいを日常的に(愉しみながら)続けられるようになることだ。以前、フィールドワークのすすめ方について、以下のように整理したことがあるので紹介しよう。*1

フィールドワークの方法と態度を身につけるためには、毎日の暮らしのなかで[①じろじろ見る → ②あれこれ想像する → ③いろいろ集める]をくり返す練習をすればいい。教科書を読んで学ぶだけではなく、じぶんの日常生活に、このサイクルを組み込むことが大切なのだ。
言うまでもなく、ぼくたちの暮らしはハプニングに満ちている。だからこそ、面白い。目の前にあるちいさな問題は、じぶんたちで何とか解決しようとする。緊急を要するなら、その場で知恵を絞り、何かを調達して対処する。とりあえず、その場をしのぐこともある。このように、ぼくたちは、向き合うべき問題に応じて、しなやかに、臨機応変に、その場にふさわしいと思われる解決方法を模索し、やりくりしながら暮らしている。

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こうしたやりくりの成果は、まちのさまざまな場面に表れているはずだ。だから、まずは、まちを歩きながら「じろじろ見る」ことからはじめよう。スマホの画面を操作するのは後にして、きょろきょろしながら、人びとの活動の余韻や予兆を探すのだ。ちょっとでも気になる〈モノ・コト〉があったら、じろじろと観察する。細かいところ、裏側、上から下から斜めから、近くから遠くから。道ゆく人に怪しまれることを恐れずに、じろじろ見るのだ。

そのあとは「あれこれ想像する」態度が求められる。これはなんだろう。なぜここにあるのだろう。誰がこんなふうに置いたのだろう。五感を開放して、あれこれ想像してみる。妄想でも、邪推でもかまわない。観察された〈モノ・コト〉の背後には、おそらく、それに関わりをもった人の姿が映るはずだ。ぼくたちをとりまくさまざまな〈モノ・コト〉を、人びとの〈しわざ〉の表れとして考えてみよう。もちろん、誰かと話をしたり、資料を探したりするのもいい。じぶんの想像力だけに頼らず、いろいろな知識を動員すれば、あたらしいアイデアも浮かんでくるだろう。

そして、さらに「じろじろ」をくり返し、ひとつではなく、いくつもの〈モノ・コト〉を採集する。「いろいろ集める」のである。たくさん集まったら、それらを並べて(あるいは地図上に位置を示したり、一覧表をつくったりして)、見比べたり、分類を試みたりする。そのなかで、なんらかの傾向性が見えてくるかもしれない。

この一連の動きが身体になじんでくれば、わざわざ「フィールドワーク」などと言わなくてもいいのかもしれない。つねに、〈モノ・コト〉を多面的に眺め、過去の経験を呼び出しながら、ことばを紡いでゆく。じつは、とてもシンプルなプロセスなのだ(まぁ…言うのは簡単)。

7.3 かかわりのフィールドワーク

昨年、『かかわりのフィールドワーク』という冊子をつくった。展覧会に間に合うように、未完のまま製本したが、もう少し加筆して、できれば書籍として公開したいと考えているものだ*2。その冒頭で、フィールドワークを学ぶことについて、簡単に整理した。

フィールドワークは、社会や文化を知るための一つの方法である。方法は、つまりは「しかた」であるから、それはたんなる技法ではなく心構えや対象への向き合い方、つまり身体をどう使うか(使いこなすか)という、ぼくたちの姿勢や態度にもかかわっていると言えるだろう。ことばにすることはもちろん大切だが、身体をとおして学ぶことは少なくない。そのため、つい「やってみなければ、わからない」「まずは、やってみよう」と考えがちだ。これは、〈現場〉での実態的な学びの本質なのだろう。
フィールドワークを、ぼくたちの姿勢にかかわる活動だと考えてみると、授業や教科書で学ぶのが容易ではないことに気づく。実際に、フィールドワークの教科書はたくさん流通しているが、結局のところは、すすめ方の段取りや注意すべき事柄について(ひとまず)「理屈」として頭に入れることになる。フィールドワークが、複雑で猥雑な〈現場〉に出かけることだと思いながらも、それが文字面をなぞるだけで、なかなか実感が湧いてこない。
フィールドワークを教える立場になってしばらく経つが、教科書どおりに進行しないことは、たくさんある。それぞれの〈現場〉で人びとに近づき、その複雑で起伏のある生活を知れば知るほど、事前に学んだ「理屈」がすぐさま役に立つものではないことを思い知るのだ。予期せぬ出来事に、その都度、即興的に反応しなければならないこともある。事前の準備や心構えも、〈現場〉で改変をせまられる。

学生たちは、きっとその「ままならなさ」に困惑することが多いはずだ。学ぶ側だけでなく、教える立場からも、どうすれば、この感覚を伝えることができるのだろうか。フィールドワークは、何かを発見したり理解したりするだけではなく、さまざまな〈モノ・コト〉との関係性を問い直す活動だ。調査を試みている本人が、〈現場〉でいろいろな出来事に遭遇しながら、じぶんを問い直し、場合によっては自己を再編成してゆく。

つまり、どのような立場であっても、フィールドワークという方法をえらんだ時点で、ぼくたちは、誰かとかかわりをもつ。最初は、たまたま出会った人であっても、フィールドワークをすすめていくうちに、大切な「関与者」として接するようになるかもしれない。つねに、その可能性はあるはずだ。観察・記録をすすめていくと、「どうなっているか」を知るだけでは済まされなくなるだろう。たんに状況とかかわりを持たない「観察者」でいること・いつづけることは、難しくなるのだ。

「観察者」から「関与者」へ。多くの場合、フィールドワークの授業や教科書では、「観察者」は過度に現場に干渉しないことが大切だと教えられる。ぼくも、(ひとまず)そのように講義をする。「調査」と呼ぶからには、「観察者」と〈現場〉とのあいだには「踏み越える」ことのできない境界があることを意識していなければならない。信頼関係を築き、少しずつ〈現場〉にとけ込んでゆくことは重要だが、それでも、つねに適切な距離を保つように心がけるのだ。とりわけ、〈現場〉で出会う人びとに対して、必要以上に感情をよせてはならない。それが、基本的な考え方だ。
ぼくは、フィールドワークという方法や態度を教える立場にあるが、もう一歩「踏み越える」ことで、いったい何が見えてくるのかに関心をよせている。感情がなければ、かかわりがなければ、近づけない〈モノ・コト〉がたくさんあるからだ
*3。これをフィールドワークとして認めるならば、その成果は、具体的な行動として表れることになる。

ていねいに観察と記録を試みる。そして、〈現場〉に能動的にかかわる。“Stay at home”の状況でも、この二つに取り組むことができる。じつは、いまほど「内(家)」のことに関心がおよんでいることはなかったのかもしれない。あらためて、「内(家)」をとらえなおす好機なのだ。上に挙げた昨年度のテーマを見ればわかるとおり、たとえば「マンションエレベーターの動き」「我が家の冷蔵庫」「ごみ置き場」など、すでに「内(家)」(およびその界隈)が、〈現場〉としてえらばれていた。観察と記録をくり返し、「関与者」として向き合えば、〈現場〉は目に見えるかたちで変わっていくはずだ。エレベーターのことを知れば、エレベーターの乗り方が変わるかもしれない。冷蔵庫を観察していれば、収納のしかた、あるいは日々の食生活にまで影響がおよぶかもしれない。
この1か月ほど、フィールドワークについて考えるにつれ、動きを止められてしまったような無力感をいだいていたが、だいぶスッキリしてきた。じぶんの暮らしを見つめ直し、改変してゆく。きっと、この窮屈ないまこそ、フィールドワークを学ぶときなのだ。実習課題などもふくめて、詳細についてはいずれ紹介したいと思う。「フィールドワーク法」は、4月30日から。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:2012年度に実施した「工夫と修繕」というプロジェクトの序文:工夫と修繕 ::: はじめに。また、フィールドワークを教えることについては:加藤文俊(2014)まちの変化に「気づく力」を育むきっかけづくり(特集・フィールドワーカーになる)『東京人』5月号(no. 339, pp. 58-63)都市出版 を書いた。

*2:加藤文俊(編著)・上地里佳・大橋香奈・尾内志帆・徳山夏生(著)(2019)『かかわりのフィールドワーク:ともにふり返る』冊子(フィールドワーク展XV版)

*3:たとえば、クラインマン, S. ・コップ, M. A.(2006)『感情とフィールドワーク』世界思想社など。

グループワークはこうする

[06] 2020年4月21日(火)

6.1 あと10日

いよいよ、あと10日ほどで授業がはじまる。幸か不幸か、学事やもろもろのことを決めるのにかかわる立場にあって、何かと慌ただしい。じつは、授業の準備が思うようにすすんでいないのだ。毎週火曜日の「研究会(ゼミ)」のほうは、すでに4月7日からスタートさせている。昨日は、打ち合わせの最中にシステムが落ちた(ひとまず中断して、数時間後に続きの話をすることができた)。今週あたりから、いろいろな大学でオンライン授業がはじまったことと関係しているのだろうか。14:30ごろ、つまりウチのキャンパスでは4時限目がはじまるころで、時間割がいちばん賑やかなタイミングだ。授業はもちろんだが、大事なことを決める会議中にシステムが落ちるなんて、想像したくない。いまさらながら、バックアッププランを考えていなかったことに気づく。
SNSでは、同僚や同業者たちがオンライン講義の体験談やコツを披露しはじめている。いろいろと試したくもなるが、まずは、じぶんの身体で一連の「オンライン化」の実態をとらえてみようと思っている。研究会を数回オンラインで開講してみたが、いろいろなことが気になりはじめた。

まず、ぼくが気になっているのは、一人ひとりの生活が容赦なく〈見られる〉ということ。〈見る=見られる〉という関係はコミュニケーションの基本であるから、それほど驚くことでもない。ビデオをオンにして、リアルタイムで顔を見ながら授業をするとき、いくつもの顔がタイル状に並ぶ。ちいさな「タイル」ではあるが、一人ひとりの背景には、いろいろなモノが写り込んでいる。家にいながら開講しているので、当然のことながら、ぼくの自室も晒される。「オンライン化」とともに、いくつもの視線が、日常生活に向けられることになる。
数年前に見た、『Panopticon』(2015)という(文字どおりの)VRのゲームを思い出した。ここ数週間は、これに似たような画面を眺めることが多くなった。教員あるいは議長という立場を意識しながらオンライン会議のシステムに向き合うと、いかにも「一望監視装置」だということを実感する。もちろん、(特権的な立場にいある)誰か一人が〈見られることなく見る(seeing without being seen)〉のではなく、(やや不釣り合いながらも)お互いの姿を見せ合うという点では、ずいぶんちがう。 *1

Panopticon from Louis Eveillard on Vimeo.

もちろん、これに対しては、あまり過敏に反応するのもよくない。ふだんの教室にいても、みんな顔を出しているし、履修者名簿もある。回数を重ねていくうちに、教室のなかで、顔と名前が一致するようにもなる。授業がオンラインで提供されるということになってから、学生も教員も、あたらしいやり方に順応すべく準備をはじめている。ひとまず矩形に切り取られる部分だけ整理整頓したり、背景を準備したり。だから、じゅうぶんな注意は必要だが、やがて、日常にとけ込んでいくにちがいない。
先日の研究会では、オンラインで〈見られる〉状況について、服装などの身支度のことが話題になった。ぼくたちは、じぶんが「外」に出るさいに、人びとの視線を意識して服装や髪を整える。「内(家)」にいるときは、ちょっとリラックスした「部屋着」で過ごすことが多いはずだ。オンライン開講だと、自室にいながら、決められた時刻になるといくつもの視線が「内(家)」に入ってくる。そして、カメラが切り取る範囲だけが「外」に発信される。とりわけ仕事の場合には、礼儀と快適さを両立させようと、あれこれ思案する。テレワークのときに、どういう着こなしをすればよいのか。すでに「デジカジ」ということばさえ見かけるようになった。*2

6.2 グループワークはこうする

オンラインで50人の学生たちと向き合うことは、(技術的には)もちろん可能だ。一人ひとりと会話することもできるし、グループに分かれて議論するような設定も可能だ。だが、画面上にいくつも顔が並んでいるとはいえ、そこで、1対50という関係を感じることは難しい(少なくとも、いまのぼくには)。むしろ、1対1の関係が、50個束ねられているという感覚なのだ。クリックひとつで、50人の学生たちをいくつかのグループに分けることもできる。だが、たとえば5人のグループができたとしても、同じ理屈で考えれば、一人ひとりが1対4を体感するわけではなく、1対1のコミュニケーションを並行させながらやりくりする感覚が強いのではないだろうか。そのあたりのことは、正直なところ、まだよくわからない。

毎年、春学期には、授業時間中のグループワーク(ワークショップ)を中心に組み立てている授業がある。机を移動して、教室にいくつかの「島」をつくり、5〜6人程度のグループに分かれて演習課題に取り組む。2コマ続きなので、前半はグループごとに話し合い、後半にその内容を共有しながらふり返って、その上で解説をおこなうというやり方だ。このグループワークは活気に満ちていて、いつも「高密度」の時間になる。そこが、授業としても一番大切な部分だと考えている。
学期中は、毎回グループを組み替えながら、いくつかの演習をおこなうので、学期が終わる頃には、人によってさまざまな考え方・ものの見方があることを実感できる。コミュニケーションをとおして、あたえられた状況に多面的に向き合うことの重要性を知る(ことが期待されている)。演習の内容は、意思決定や(社会的)ジレンマ状況などにかかわるもので、唯一の「正解」があるとはかぎらない。だからこそ、緊密なコミュニケーションの場をつくって語り合う必要がある。さて、この授業をどうするか。これは、相当難しい。

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「相当難しい」と思うのは、これまで教室でおこなってきた授業を「オンラインでも」再現しようと考えているからなのだ。いま、オンライン授業のノウハウや実践例を共有する動きが活発で、このときだからこそ生まれる創意工夫は、とても大事だ。だが、教室でのふるまいを、オンラインで実現しようとすること自体、教室という場所、そして教室での授業に付随するさまざまなやり方や語り口に、強くしばられていることの表れではないのか。教室ありきではない。教室の代替でもない。いろいろ窮屈に思うことは少なくないが、あらためてオンラインのグループワークについて考えてみる必要がありそうだ。

あれこれと考えて、あえて、もう少し不自由な状況で授業をやってみることにした。ここでいう不自由とは、ビデオや音声、講義資料などを駆使して、リアルタイムに教室の再現を試みることを、ひとまず放棄するという意味だ。諦めるのではなく、積極的に、コミュニケーションの方法に制限をくわえる実験だ。じつはこの考えは、過去に「ネットワークコミュニケーション」という科目を担当した経験(2001年から5年ほど担当して、科目そのものが消えてしまった)と無関係ではない。
事前に公開していたシラバスとは、だいぶちがったやり方になってしまうが、グループワークは、オンライン上に「教室のような」場所(いかにも代替であるというイメージを喚起する)を設けるのではなく、どこかにある(かもしれない)「ベータ村」を舞台にすすめることにした。ファンシーなVRのシステムではない。テキスト主体のSNSだ。だが、「ベータ村」では、「本当の」名前も顔も出す必要はない。
思えば、教室では、いつでも後ろの席に座って、顔を隠して授業を受けることができる。物理的には教室にいながら、心理的な退室はできるようになっている。90分なら90分という時間の流れは、起伏に富んでいるのだ。「オンライン化」への熱狂は、あるリズムやスピードを強要し、ぼくたちにとって大切な〈余白〉を奪ってしまうのではないか。たんに、ぼくがスッキリしていないだけのことかもしれない。

f:id:who-me:20200418100926j:plain【2020年4月18日(土)|雨の土曜日】グループワークは、どこかにある(かもしれない)「ベータ村」でおこなうことにした。*3

やや懐古的ではあるが、「ベータ村」では、あらためてテキストのやりとりに注目してみたい。グループワークは、お互いに(本当の)名前も顔も明かすことなく、ディスプレイに向かって綴るテキストを往復させることによって進行する。ことばだけではムリだと知りながら(知っているからこそ)、ことばをえらんだり、送るタイミングを考えたりする。それでも、決めるべきことは、決められるはずだ。そして、一体感も味わえると信じている。
この試みが、授業としてどういう意味や価値をもつのかについては、まだ判断できない。学生たちのリアクションも、まだわからない。ぼくとしては、無自覚に教室をオンラインで再現しようとしていたじぶんをふり返って(戒めて)、ささやかながらも、「オンライン化」の大波に、ゆるりと浮かぶ小舟のように、ちょっとほっこりできる場所をつくってみたい。「ベータ村の暮らし」は、5月4日(月)から。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:しばらく前になるが、「電子ネットワークのなかの視線」というタイトルで「パノプティコン」のことを書いたことがある。たびたびの自然災害に見舞われて、同じテクノロジーでありながら、ぼくたちは〈監視〉から〈見守り〉へと意識を向けはじめているのだと思う。たとえば:加藤文俊(1998)電子ネットワークのなかの視線 - 井上輝夫・梅垣理郎(編)『メディアが変わる 知が変わる:ネットワーク環境と知のコラボレーション』(pp. 121-141)有斐閣

*2:たとえば、テレワークの心得 ユニクロが注目する「デジカジ」|くらし&ハウス|NIKKEI STYLE

*3:数日前に書いた、授業へのイントロダクション(のような):〈ものがたり〉は、すでにはじまっています。 どこかにある(かもしれない)「ベータ村」も、今朝は雨です。数日前、入居希望者の申請がしめ切られ、厳正なる審査の結果、入居者がえらばれました。早ければ、来週後半から、入居の準備について案内できる見込みです。 「ベータ村」についての故事来歴、その他いろいろなことは、(長くなるので)いまは省略しますが、ここでも、住人たちは不自由な毎日を過ごすことになります。対面で話をしたり、テーブルを囲んで一緒に食事をしたりすることは禁じられています。できるかぎり、じぶんの“ホーム”にいて、オンラインで外部と接続します。顔を見ることもできないし、「本当の名前」すらわからないのですが、明滅するディスプレイ上でテキストをやりとりしていると、きっと体温を感じられるようになります。ことばで感情が動くことを、ぼくたちは、知っているからです。そして、どんなことがあっても、「ベータ村」には、ことばを発する愉しさと自由があるからです(そう、願っています)。 この先、「ベータ村」では、いろいろな事件(ハプニング)が発生します。その都度、住人たちのコミュニケーションをとおして、一人ひとりのこと、そしてちいさな「集まり」のこと(そして、さらにその外にひろがる世界のこと)について考えていきます。 この不自然で窮屈に思える暮らしのなかから、「何か」が生まれるはずです。“メール”や“掲示板”など、リアルな世界のことばやコンセプトが、オンラインでの仕組みを説明したり理解したりするのに役立ったように、こんどは「ベータ村」でのオンライン生活のなかで生まれたことばやコンセプトで、リアルな世界をふたたび読み直していく。それが、「ベータ村」の存在意義です。 気づいたら、ぼくは、すでにこんな〈ものがたり〉のなかにいました。

ひと月

[05] 2020年4月15日(水)

(3月4日〜4月15日)緊急事態宣言から、一週間。ここで、このひと月くらいをふり返っておきたい*1。いつもなら、年度末で忙しいながらも桜を楽しみにしている頃だ。少しずつ暖かくなってきて、卒業や入学・入社などの節目をむかえる。ちょっと軽装になって、いそいそとまちに出かけているはずだった。

“Stay at home”な毎日が、本格的にはじまった。画面を眺めている時間がずいぶん増えているように思えるが、早めに晩ごはんを食べて(軽く晩酌して)、夜のまちを散歩するという、ありそうでなかった時間を過ごすことができている。特別なことはない、ふつうの日だ。うちの界隈は、だいぶ人影がまばらになってきている。もろもろの仕事の合間には、同僚からLINEが届いたり、学生からの問い合わせなどもあったり(新学期だからあたりえまえか)、それなりに忙しい。「研究会(ゼミ)」は、(本来の学事日程どおり)4月7日(火)からオンラインで開講している。

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3月4日(水)

学部卒業式(3月23日)、大学院学位授与式(3月26日)の中止が決定。徐々に、その他の予定されていた学会やシンポジウムなどの中止や延期が決まり、連絡や調整の仕事が急増。3月24〜25日にかけて共催を任されていたイベントも、結局のところは延期に。

3月10日(火)

1月6日が入力しめきりだったシラバスが公開された。このあと、学事日程の変更(3月19日)にともなって、シラバスのページは閲覧できなくなる。

  • 2020年度春学期シラバスの閲覧開始
3月16日(月)
3月17日(火)
3月19日(木)

春学期の授業開始日が4月30日(木)に決まる(【2020年4月入学者の方へ】入学後の行事と諸手続の変更について)。これにともない、公開中だったシラバスのページは閲覧できなくなる(教員は修正版の作成に)。

 

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Fumitoshi Kato🐸 on Instagram: “😌Keep calm and stay connected. #stayonline” (3/19)


3月24日(火)
  • 国際オリンピック委員会(IOC)と東京2020組織委員会が、東京2020大会の延期を発表
3月26日(木) 

大学院学位授与式に参列。壇上から、がらんとした会場を眺めながら過ごす。終わったあとは、キャンパスへ。
この役目、任期はカウントダウンでどんどん短くなっていくが、「おかしら日記」などもふくめて記録をまとめておくために、iincho.lifeというドメインを取得。ブログを整理する。

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Fumitoshi Kato🐸 on Instagram: “がらがら。”  (3/26)


3月28日(土)
  • オンライン会議(90分くらい)
3月30日(月)
4月1日(水)
  • 新年度のはじまり。
  • 改訂版のシラバスを公開。ただし、この段階では「オンライン(全回)」「オンキャンパス(第1週~第11週のうち1回でもオンキャンパスで実施する)」「最終回のみオンキャンパス」が混在。
  • 夕刻、「新型コロナウイルスに対応した春学期開講科目の授業実施について(新たなお願い)」を発信。授業開始の4月30日(木)から学期前半科目終了まで(6月10日まで)は、オンライン開講という方向性に。
  • 残量75%(マンスリー)を公開
4月2日(木)
  • 打ち合わせ
  • 新任教員向けガイダンス
4月3日(金)
4月4日(土)
4月6日(月)

大学へ。「巣ごもり」に備えて、研究室、研究科委員長室から、いろいろとモノを運び出す。総合政策学部・環境情報学部、それぞれの学部長がメッセージを発信。授業の選抜登録開始。

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Fumitoshi Kato🐸 on Instagram: “🦆引っ越し感。 #stayonline” (4/6)


4月7日(火)

キャンパスは立入禁止になったので、本格的なリモートワークのはじまり(事務室も閉室)。部屋を片づけて、授業や会議に備える。

  • オンラインで打ち合わせ(60分くらい)
  • オンラインで研究会(ゼミ)(90分くらい)
  • 緊急事態宣言発令(緊急事態措置を実施すべき期間は、4月7日から5月6日までの1か月間)
4月8日(水)

ミーティングがたくさん(ふだんも、水曜日はこんな感じだが、すべてがオンラインだった)。以下のとおりで、9:00〜17:30ごろまで(昼休みは60分くらい)。

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Fumitoshi Kato🐸 on Instagram: “👨🏻‍💻ふー、きょうは9時から5時までオンライン会議でした。 #stayonline” (4/8)


4月9日(木)

だんだん、曜日の感覚がなくなってきた(ような気もする)。

4月11日(土)

大学院新入生・在学生向けのビデオメッセージ(日本語版・英語版)を(ウチで)収録。なかなかうまくいかず、午後はずっとビデオづくり。

4月13日(月)
  • インフォーマルなオンライン雑談(120分くらい)
  • 履修者選抜課題しめ切り
4月14日(火)
  • オンライン会議(120分)
  • オンラインで研究会(ゼミ)第2回(180分くらい)
  • 履修選抜の提出課題を読む

オンラインの「研究会」は2回目。なかなか面白かった。でも、やはり休みをきちんと取りながらやったほうがよさそう。

4月15日(水)
  • 引き続き、履修者選抜の提出課題を読む
  • 選抜結果の登録 → 結果発表
  • (いまここ)

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:必要に応じて、適宜加筆・修正します。