[07] 2020年4月25日(土)
7.1 フィールドワークは、どうしよう。
グループワークのほうは、いちおうの方針が立った。教室でのふるまいを、「オンラインでも」再現しようと試みるのではなく、あえてテキストでのコミュニケーションに特化してすすめてみることにした。
そして、もう一つ考えるべきは、フィールドワークである。授業にかぎらず、9年目に入った「カレーキャラバン」も、そして10数年続けてきた「キャンプ」も、「内(家)」にいるのではなく、「外」に出かけるのが前提だ。「フィールドワーク法」の授業では、教室で毎週の講義はあるものの、学生たちは、学期をとおしてちいさなフィールドワークの実習をおこなう。入門的な性格の授業なので、フィールドワークの練習のような位置づけになる。観察や記録が主体だが、人に話しかける場面もある。方法や態度としてのフィールドワークを、まさに〈現場〉で体験的に学ぶ(ことが期待されている)のだ。
学生たちは、たとえば昨年度は以下のようなテーマでフィールドワークをおこなった(一部を抜粋)。
- パン屋での日常
- 改札をぬける
- 違法駐輪
- 食品サンプル分布
- マンションエレベーターの動き
- タピオカ店人気の要因
- 公園に潜む大人たち
- ベンチを過ぎてゆく人々
- カフェのお客さん
- 車たちの定点観察
- 我が家の冷蔵庫
- 渋谷における今期の流行色の傾向
- 中央林間のスーパーマーケットにおける時間のすごし方
- 代々木公園内ドッグランにおける人々の動き
- 仙川駅周辺カフェの客層調査
- 電車内の過ごし方観察
- 海の公園柴口駅の駐輪場の様子
- 町田のキャッチの生態調査
- スーパーの駐車場
- ごみ置き場
- 夜明け前のあずま通りの観察
- 大宮駅西口デッキのベンチ
「フィールドワーク法」(2019年度春学期開講)より
こうした実習課題の面白いところは、一人ひとりがそれぞれの〈現場〉に出かけて観察・記録をすすめることで、そのレポートをとおして、ぼくたちの「見聞」も広まるという点だ。もちろん直接体験にはならないが、さまざまな問題意識のもと、多様な発見や気づきが紹介されることになるので、まるでじぶんの分身たちが、あちこちに出かけて、〈現場〉を追体験しているような気分になる。いくつもの個別具体的な話に出会いながら、ぼくの感性も少しずつ開拓されてゆくはずだ。
もちろん、まちを歩きたい。遠出もしてみたい。誰かと出会い、語りたい。フィールドワークやインタビューなど、これまで「あたりまえ」だと思っていた質的調査(定性的調査)の多くは、そもそも「三密」を前提に成り立っているようなものだ。ひとまずオンラインで開講しても、学期の後半になれば、教室での講義も、そして「外」での実習も、実施できるのではないか。わずかながらも期待していたが、どうやらそれは、かないそうにない。さて、どうしよう。
7.2 じろじろ・あれこれ・いろいろ
「フィールドワーク」は、さまざまな領域で用いられているので、唯一のやり方があるわけではない。背後にある考え方も多様なので、いくつもの流派や作法のようなものがあると言っていい。これまで「社会調査法(定性的調査法)」や「フィールドワーク法」という科目を担当してきた経験にもとづいた、あくまでも個人的な考えだが、まず大事なのは、つぶさに観察し詳細に記録すること。そして、そのふるまいを日常的に(愉しみながら)続けられるようになることだ。以前、フィールドワークのすすめ方について、以下のように整理したことがあるので紹介しよう。*1
フィールドワークの方法と態度を身につけるためには、毎日の暮らしのなかで[①じろじろ見る → ②あれこれ想像する → ③いろいろ集める]をくり返す練習をすればいい。教科書を読んで学ぶだけではなく、じぶんの日常生活に、このサイクルを組み込むことが大切なのだ。
言うまでもなく、ぼくたちの暮らしはハプニングに満ちている。だからこそ、面白い。目の前にあるちいさな問題は、じぶんたちで何とか解決しようとする。緊急を要するなら、その場で知恵を絞り、何かを調達して対処する。とりあえず、その場をしのぐこともある。このように、ぼくたちは、向き合うべき問題に応じて、しなやかに、臨機応変に、その場にふさわしいと思われる解決方法を模索し、やりくりしながら暮らしている。
こうしたやりくりの成果は、まちのさまざまな場面に表れているはずだ。だから、まずは、まちを歩きながら「じろじろ見る」ことからはじめよう。スマホの画面を操作するのは後にして、きょろきょろしながら、人びとの活動の余韻や予兆を探すのだ。ちょっとでも気になる〈モノ・コト〉があったら、じろじろと観察する。細かいところ、裏側、上から下から斜めから、近くから遠くから。道ゆく人に怪しまれることを恐れずに、じろじろ見るのだ。
そのあとは「あれこれ想像する」態度が求められる。これはなんだろう。なぜここにあるのだろう。誰がこんなふうに置いたのだろう。五感を開放して、あれこれ想像してみる。妄想でも、邪推でもかまわない。観察された〈モノ・コト〉の背後には、おそらく、それに関わりをもった人の姿が映るはずだ。ぼくたちをとりまくさまざまな〈モノ・コト〉を、人びとの〈しわざ〉の表れとして考えてみよう。もちろん、誰かと話をしたり、資料を探したりするのもいい。じぶんの想像力だけに頼らず、いろいろな知識を動員すれば、あたらしいアイデアも浮かんでくるだろう。
そして、さらに「じろじろ」をくり返し、ひとつではなく、いくつもの〈モノ・コト〉を採集する。「いろいろ集める」のである。たくさん集まったら、それらを並べて(あるいは地図上に位置を示したり、一覧表をつくったりして)、見比べたり、分類を試みたりする。そのなかで、なんらかの傾向性が見えてくるかもしれない。
この一連の動きが身体になじんでくれば、わざわざ「フィールドワーク」などと言わなくてもいいのかもしれない。つねに、〈モノ・コト〉を多面的に眺め、過去の経験を呼び出しながら、ことばを紡いでゆく。じつは、とてもシンプルなプロセスなのだ(まぁ…言うのは簡単)。
7.3 かかわりのフィールドワーク
昨年、『かかわりのフィールドワーク』という冊子をつくった。展覧会に間に合うように、未完のまま製本したが、もう少し加筆して、できれば書籍として公開したいと考えているものだ*2。その冒頭で、フィールドワークを学ぶことについて、簡単に整理した。
フィールドワークは、社会や文化を知るための一つの方法である。方法は、つまりは「しかた」であるから、それはたんなる技法ではなく心構えや対象への向き合い方、つまり身体をどう使うか(使いこなすか)という、ぼくたちの姿勢や態度にもかかわっていると言えるだろう。ことばにすることはもちろん大切だが、身体をとおして学ぶことは少なくない。そのため、つい「やってみなければ、わからない」「まずは、やってみよう」と考えがちだ。これは、〈現場〉での実態的な学びの本質なのだろう。
フィールドワークを、ぼくたちの姿勢にかかわる活動だと考えてみると、授業や教科書で学ぶのが容易ではないことに気づく。実際に、フィールドワークの教科書はたくさん流通しているが、結局のところは、すすめ方の段取りや注意すべき事柄について(ひとまず)「理屈」として頭に入れることになる。フィールドワークが、複雑で猥雑な〈現場〉に出かけることだと思いながらも、それが文字面をなぞるだけで、なかなか実感が湧いてこない。
フィールドワークを教える立場になってしばらく経つが、教科書どおりに進行しないことは、たくさんある。それぞれの〈現場〉で人びとに近づき、その複雑で起伏のある生活を知れば知るほど、事前に学んだ「理屈」がすぐさま役に立つものではないことを思い知るのだ。予期せぬ出来事に、その都度、即興的に反応しなければならないこともある。事前の準備や心構えも、〈現場〉で改変をせまられる。
学生たちは、きっとその「ままならなさ」に困惑することが多いはずだ。学ぶ側だけでなく、教える立場からも、どうすれば、この感覚を伝えることができるのだろうか。フィールドワークは、何かを発見したり理解したりするだけではなく、さまざまな〈モノ・コト〉との関係性を問い直す活動だ。調査を試みている本人が、〈現場〉でいろいろな出来事に遭遇しながら、じぶんを問い直し、場合によっては自己を再編成してゆく。
つまり、どのような立場であっても、フィールドワークという方法をえらんだ時点で、ぼくたちは、誰かとかかわりをもつ。最初は、たまたま出会った人であっても、フィールドワークをすすめていくうちに、大切な「関与者」として接するようになるかもしれない。つねに、その可能性はあるはずだ。観察・記録をすすめていくと、「どうなっているか」を知るだけでは済まされなくなるだろう。たんに状況とかかわりを持たない「観察者」でいること・いつづけることは、難しくなるのだ。
「観察者」から「関与者」へ。多くの場合、フィールドワークの授業や教科書では、「観察者」は過度に現場に干渉しないことが大切だと教えられる。ぼくも、(ひとまず)そのように講義をする。「調査」と呼ぶからには、「観察者」と〈現場〉とのあいだには「踏み越える」ことのできない境界があることを意識していなければならない。信頼関係を築き、少しずつ〈現場〉にとけ込んでゆくことは重要だが、それでも、つねに適切な距離を保つように心がけるのだ。とりわけ、〈現場〉で出会う人びとに対して、必要以上に感情をよせてはならない。それが、基本的な考え方だ。
ぼくは、フィールドワークという方法や態度を教える立場にあるが、もう一歩「踏み越える」ことで、いったい何が見えてくるのかに関心をよせている。感情がなければ、かかわりがなければ、近づけない〈モノ・コト〉がたくさんあるからだ*3。これをフィールドワークとして認めるならば、その成果は、具体的な行動として表れることになる。
ていねいに観察と記録を試みる。そして、〈現場〉に能動的にかかわる。“Stay at home”の状況でも、この二つに取り組むことができる。じつは、いまほど「内(家)」のことに関心がおよんでいることはなかったのかもしれない。あらためて、「内(家)」をとらえなおす好機なのだ。上に挙げた昨年度のテーマを見ればわかるとおり、たとえば「マンションエレベーターの動き」「我が家の冷蔵庫」「ごみ置き場」など、すでに「内(家)」(およびその界隈)が、〈現場〉としてえらばれていた。観察と記録をくり返し、「関与者」として向き合えば、〈現場〉は目に見えるかたちで変わっていくはずだ。エレベーターのことを知れば、エレベーターの乗り方が変わるかもしれない。冷蔵庫を観察していれば、収納のしかた、あるいは日々の食生活にまで影響がおよぶかもしれない。
この1か月ほど、フィールドワークについて考えるにつれ、動きを止められてしまったような無力感をいだいていたが、だいぶスッキリしてきた。じぶんの暮らしを見つめ直し、改変してゆく。きっと、この窮屈ないまこそ、フィールドワークを学ぶときなのだ。実習課題などもふくめて、詳細についてはいずれ紹介したいと思う。「フィールドワーク法」は、4月30日から。
(つづく)
*1:2012年度に実施した「工夫と修繕」というプロジェクトの序文:工夫と修繕 ::: はじめに。また、フィールドワークを教えることについては:加藤文俊(2014)まちの変化に「気づく力」を育むきっかけづくり(特集・フィールドワーカーになる)『東京人』5月号(no. 339, pp. 58-63)都市出版 を書いた。
*2:加藤文俊(編著)・上地里佳・大橋香奈・尾内志帆・徳山夏生(著)(2019)『かかわりのフィールドワーク:ともにふり返る』冊子(フィールドワーク展XV版)
*3:たとえば、クラインマン, S. ・コップ, M. A.(2006)『感情とフィールドワーク』世界思想社など。