グループワークはこうする

[06] 2020年4月21日(火)

6.1 あと10日

いよいよ、あと10日ほどで授業がはじまる。幸か不幸か、学事やもろもろのことを決めるのにかかわる立場にあって、何かと慌ただしい。じつは、授業の準備が思うようにすすんでいないのだ。毎週火曜日の「研究会(ゼミ)」のほうは、すでに4月7日からスタートさせている。昨日は、打ち合わせの最中にシステムが落ちた(ひとまず中断して、数時間後に続きの話をすることができた)。今週あたりから、いろいろな大学でオンライン授業がはじまったことと関係しているのだろうか。14:30ごろ、つまりウチのキャンパスでは4時限目がはじまるころで、時間割がいちばん賑やかなタイミングだ。授業はもちろんだが、大事なことを決める会議中にシステムが落ちるなんて、想像したくない。いまさらながら、バックアッププランを考えていなかったことに気づく。
SNSでは、同僚や同業者たちがオンライン講義の体験談やコツを披露しはじめている。いろいろと試したくもなるが、まずは、じぶんの身体で一連の「オンライン化」の実態をとらえてみようと思っている。研究会を数回オンラインで開講してみたが、いろいろなことが気になりはじめた。

まず、ぼくが気になっているのは、一人ひとりの生活が容赦なく〈見られる〉ということ。〈見る=見られる〉という関係はコミュニケーションの基本であるから、それほど驚くことでもない。ビデオをオンにして、リアルタイムで顔を見ながら授業をするとき、いくつもの顔がタイル状に並ぶ。ちいさな「タイル」ではあるが、一人ひとりの背景には、いろいろなモノが写り込んでいる。家にいながら開講しているので、当然のことながら、ぼくの自室も晒される。「オンライン化」とともに、いくつもの視線が、日常生活に向けられることになる。
数年前に見た、『Panopticon』(2015)という(文字どおりの)VRのゲームを思い出した。ここ数週間は、これに似たような画面を眺めることが多くなった。教員あるいは議長という立場を意識しながらオンライン会議のシステムに向き合うと、いかにも「一望監視装置」だということを実感する。もちろん、(特権的な立場にいある)誰か一人が〈見られることなく見る(seeing without being seen)〉のではなく、(やや不釣り合いながらも)お互いの姿を見せ合うという点では、ずいぶんちがう。 *1

Panopticon from Louis Eveillard on Vimeo.

もちろん、これに対しては、あまり過敏に反応するのもよくない。ふだんの教室にいても、みんな顔を出しているし、履修者名簿もある。回数を重ねていくうちに、教室のなかで、顔と名前が一致するようにもなる。授業がオンラインで提供されるということになってから、学生も教員も、あたらしいやり方に順応すべく準備をはじめている。ひとまず矩形に切り取られる部分だけ整理整頓したり、背景を準備したり。だから、じゅうぶんな注意は必要だが、やがて、日常にとけ込んでいくにちがいない。
先日の研究会では、オンラインで〈見られる〉状況について、服装などの身支度のことが話題になった。ぼくたちは、じぶんが「外」に出るさいに、人びとの視線を意識して服装や髪を整える。「内(家)」にいるときは、ちょっとリラックスした「部屋着」で過ごすことが多いはずだ。オンライン開講だと、自室にいながら、決められた時刻になるといくつもの視線が「内(家)」に入ってくる。そして、カメラが切り取る範囲だけが「外」に発信される。とりわけ仕事の場合には、礼儀と快適さを両立させようと、あれこれ思案する。テレワークのときに、どういう着こなしをすればよいのか。すでに「デジカジ」ということばさえ見かけるようになった。*2

6.2 グループワークはこうする

オンラインで50人の学生たちと向き合うことは、(技術的には)もちろん可能だ。一人ひとりと会話することもできるし、グループに分かれて議論するような設定も可能だ。だが、画面上にいくつも顔が並んでいるとはいえ、そこで、1対50という関係を感じることは難しい(少なくとも、いまのぼくには)。むしろ、1対1の関係が、50個束ねられているという感覚なのだ。クリックひとつで、50人の学生たちをいくつかのグループに分けることもできる。だが、たとえば5人のグループができたとしても、同じ理屈で考えれば、一人ひとりが1対4を体感するわけではなく、1対1のコミュニケーションを並行させながらやりくりする感覚が強いのではないだろうか。そのあたりのことは、正直なところ、まだよくわからない。

毎年、春学期には、授業時間中のグループワーク(ワークショップ)を中心に組み立てている授業がある。机を移動して、教室にいくつかの「島」をつくり、5〜6人程度のグループに分かれて演習課題に取り組む。2コマ続きなので、前半はグループごとに話し合い、後半にその内容を共有しながらふり返って、その上で解説をおこなうというやり方だ。このグループワークは活気に満ちていて、いつも「高密度」の時間になる。そこが、授業としても一番大切な部分だと考えている。
学期中は、毎回グループを組み替えながら、いくつかの演習をおこなうので、学期が終わる頃には、人によってさまざまな考え方・ものの見方があることを実感できる。コミュニケーションをとおして、あたえられた状況に多面的に向き合うことの重要性を知る(ことが期待されている)。演習の内容は、意思決定や(社会的)ジレンマ状況などにかかわるもので、唯一の「正解」があるとはかぎらない。だからこそ、緊密なコミュニケーションの場をつくって語り合う必要がある。さて、この授業をどうするか。これは、相当難しい。

f:id:who-me:20200424114902p:plain

「相当難しい」と思うのは、これまで教室でおこなってきた授業を「オンラインでも」再現しようと考えているからなのだ。いま、オンライン授業のノウハウや実践例を共有する動きが活発で、このときだからこそ生まれる創意工夫は、とても大事だ。だが、教室でのふるまいを、オンラインで実現しようとすること自体、教室という場所、そして教室での授業に付随するさまざまなやり方や語り口に、強くしばられていることの表れではないのか。教室ありきではない。教室の代替でもない。いろいろ窮屈に思うことは少なくないが、あらためてオンラインのグループワークについて考えてみる必要がありそうだ。

あれこれと考えて、あえて、もう少し不自由な状況で授業をやってみることにした。ここでいう不自由とは、ビデオや音声、講義資料などを駆使して、リアルタイムに教室の再現を試みることを、ひとまず放棄するという意味だ。諦めるのではなく、積極的に、コミュニケーションの方法に制限をくわえる実験だ。じつはこの考えは、過去に「ネットワークコミュニケーション」という科目を担当した経験(2001年から5年ほど担当して、科目そのものが消えてしまった)と無関係ではない。
事前に公開していたシラバスとは、だいぶちがったやり方になってしまうが、グループワークは、オンライン上に「教室のような」場所(いかにも代替であるというイメージを喚起する)を設けるのではなく、どこかにある(かもしれない)「ベータ村」を舞台にすすめることにした。ファンシーなVRのシステムではない。テキスト主体のSNSだ。だが、「ベータ村」では、「本当の」名前も顔も出す必要はない。
思えば、教室では、いつでも後ろの席に座って、顔を隠して授業を受けることができる。物理的には教室にいながら、心理的な退室はできるようになっている。90分なら90分という時間の流れは、起伏に富んでいるのだ。「オンライン化」への熱狂は、あるリズムやスピードを強要し、ぼくたちにとって大切な〈余白〉を奪ってしまうのではないか。たんに、ぼくがスッキリしていないだけのことかもしれない。

f:id:who-me:20200418100926j:plain【2020年4月18日(土)|雨の土曜日】グループワークは、どこかにある(かもしれない)「ベータ村」でおこなうことにした。*3

やや懐古的ではあるが、「ベータ村」では、あらためてテキストのやりとりに注目してみたい。グループワークは、お互いに(本当の)名前も顔も明かすことなく、ディスプレイに向かって綴るテキストを往復させることによって進行する。ことばだけではムリだと知りながら(知っているからこそ)、ことばをえらんだり、送るタイミングを考えたりする。それでも、決めるべきことは、決められるはずだ。そして、一体感も味わえると信じている。
この試みが、授業としてどういう意味や価値をもつのかについては、まだ判断できない。学生たちのリアクションも、まだわからない。ぼくとしては、無自覚に教室をオンラインで再現しようとしていたじぶんをふり返って(戒めて)、ささやかながらも、「オンライン化」の大波に、ゆるりと浮かぶ小舟のように、ちょっとほっこりできる場所をつくってみたい。「ベータ村の暮らし」は、5月4日(月)から。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:しばらく前になるが、「電子ネットワークのなかの視線」というタイトルで「パノプティコン」のことを書いたことがある。たびたびの自然災害に見舞われて、同じテクノロジーでありながら、ぼくたちは〈監視〉から〈見守り〉へと意識を向けはじめているのだと思う。たとえば:加藤文俊(1998)電子ネットワークのなかの視線 - 井上輝夫・梅垣理郎(編)『メディアが変わる 知が変わる:ネットワーク環境と知のコラボレーション』(pp. 121-141)有斐閣

*2:たとえば、テレワークの心得 ユニクロが注目する「デジカジ」|くらし&ハウス|NIKKEI STYLE

*3:数日前に書いた、授業へのイントロダクション(のような):〈ものがたり〉は、すでにはじまっています。 どこかにある(かもしれない)「ベータ村」も、今朝は雨です。数日前、入居希望者の申請がしめ切られ、厳正なる審査の結果、入居者がえらばれました。早ければ、来週後半から、入居の準備について案内できる見込みです。 「ベータ村」についての故事来歴、その他いろいろなことは、(長くなるので)いまは省略しますが、ここでも、住人たちは不自由な毎日を過ごすことになります。対面で話をしたり、テーブルを囲んで一緒に食事をしたりすることは禁じられています。できるかぎり、じぶんの“ホーム”にいて、オンラインで外部と接続します。顔を見ることもできないし、「本当の名前」すらわからないのですが、明滅するディスプレイ上でテキストをやりとりしていると、きっと体温を感じられるようになります。ことばで感情が動くことを、ぼくたちは、知っているからです。そして、どんなことがあっても、「ベータ村」には、ことばを発する愉しさと自由があるからです(そう、願っています)。 この先、「ベータ村」では、いろいろな事件(ハプニング)が発生します。その都度、住人たちのコミュニケーションをとおして、一人ひとりのこと、そしてちいさな「集まり」のこと(そして、さらにその外にひろがる世界のこと)について考えていきます。 この不自然で窮屈に思える暮らしのなかから、「何か」が生まれるはずです。“メール”や“掲示板”など、リアルな世界のことばやコンセプトが、オンラインでの仕組みを説明したり理解したりするのに役立ったように、こんどは「ベータ村」でのオンライン生活のなかで生まれたことばやコンセプトで、リアルな世界をふたたび読み直していく。それが、「ベータ村」の存在意義です。 気づいたら、ぼくは、すでにこんな〈ものがたり〉のなかにいました。