[03] 2020年4月6日(月)
3.1 プレゼンテーションは誰のものか
しばらくキャンパスに入ることができなくなるので、「巣ごもり」に必要なモノをまとめて家に持って帰ることにした。バンカーズボックスとちいさな観葉植物を台車に乗せてクルマまで向かうとき、なんだか哀しい気持ちになった。ナイーヴすぎるのだが、夕暮れ時のキャンパスは、とても美しい。この先、ぼくたちは、基本的には家から出ることなく、春学期を成り立たせる必要がある。もう、こうなったらYouTuberになるくらいの勢いで、ウェブコミュニケーション(そして、他のコミュニケーションのありよう)について考えることにしよう。ここのところ、「オンライン」での教授法やノウハウ、体験などが活発に語られるようになっているが、ぼくは、一つひとつの授業を「番組」に見立てて考えてみたい。
じつは、前から、毎回のゼミ(研究会)のスケジュールを「番組表」のフォーマットでまとめて公開している。最初につくったのが2011年の5月だから、もう10年目になる。こういう些細なことを、チマチマと続ける性分なのだ。「番組表」の形式をえらんだ理由は、いくつかある。
【左:2011年5月30日(月)の番組表 -- はじめての番組表は、2011年の春。311の直後で学事日程が大幅に変更された年だった。|右:2020年1月7日(火)の番組表 -- 途中から新聞の紙面の雰囲気に近づけようとしつつ、進化した。】
まず、プレゼンテーションは誰のものか。そのことを、あらためて考えてみたかった。言うまでもなく、プレゼンテーションという場は、話し手と聞き手によってつくられる。そして多くの場合は、話し手がしゃべっているあいだは、聞き手はその話に耳を傾けることになっている。話の途中で手を挙げてコメントし、その流れを止めることが許されている場合もあるが、たいていは、ひとまず最後まで聞いてから、質問やコメントの時間になる。学位審査や学会発表などでも、発表時間と質疑応答の時間があらかじめ決められていて、それを厳格に守ることが求められる。授業やゼミになると、少し緩やかにすすむと思うが、それでも「持ち時間」が決められていて、その制約のなかでプレゼンテーションがおこなわれる。学生の人数が少なければ(そして全員が時間を出し合うことができれば)、「エンドレス(時間無制限)」で密度の濃い議論ができる。これは、「滞在型教育研究」や合宿の話につながってゆくが、それはまた別途。*1
たとえば学会発表では、一人当たりの「持ち時間」が20分程度(プレゼンテーションが15分、質疑応答が5分)というのが一般的だろうか(これは、なかなか慌ただしい)。座長は、とにかくセッションをプログラムどおりに動かすという使命のもと、たとえ議論が盛り上がっていても、ベルが鳴ると、無情に発表を終えるようにふるまう。
授業やゼミでプレゼンテーションをおこなう場合も、それが「課題」だ(つまり成績に直結している)という想いが先行すると、あたえられた時間をこなしたり、乗り切ったりする場面として考えがちになる。「課題」としての側面を意識しすぎて、プレゼンテーションの前夜になると、緊張感から胃が痛くなるという学生もいる。学生たち(そしてもちろん教員もだが)の心理的安全を確保することは、大前提。その上で、あたえられた時間を凌ぐというよりも、むしろ一人ひとりが「時間枠」を自由に演出し、表現することが許された〈発表者のための時間〉として理解することが大切だ。プレゼンテーションの場は、そこに集う面々のコミュニケーションをとおして構成されるが、おそらく、一番の自由は発表者のものだと考えてみる。
つまり、プレゼンテーションは、じぶんらしさを呈示する(否応なしにじぶんが表出する)場なのだ。「番組」に見立ててプレゼンテーションに臨むことで、前後の関係や時間配分、全体のストーリー構成などへと意識が向きやすくなるはずだ。たとえば5分という「時間枠」を得たら、その5分間を最大限に活かした「番組」をつくらなければならない。4分で終わったら、もったいない。 6分の内容を準備していたら、最後の1分はカットされる。
そこで、ゼミでは「ぺちゃくちゃナイト」*2のアイデアを援用しながら、プレゼンテーションは、原則として「自動再生」でおこなうことにしている。プレゼンテーションにはスライド資料を使うのが一般的になっているが、「自動再生」でプレゼンテーションを構成すると、スライドの枚数、載せる情報量やレイアウトなどへの意識が高まる。(まさに、ぼく自身がそうなのだが)スライドがおおかた揃ってくると、なんとなく「これでなんとかなる」と思って安心してしまうことが多い。だが、どんなにささやかな「番組」でも、じぶんが企画から構成、演出、出演までを担うという自覚が芽ばえると、「時間枠」のなかで情報の流れを設計するようになる。そして、動作確認のために、(少なくとも一度は)リハーサルをすることになる。
3.2 「聞き手」のために
くわえて、「聞き手」のことも、丁寧に考えたい。「番組」がつまらなければ、別のチャンネルに変えられてしまう。それなりの内容を維持しないと、「番組」は打ち切りになる。発表者は、学期をつうじてじぶんの個性を活かした「番組」を担当し、緊張感を持ちながら、数か月にわたって番組づくりをすすめるのだ。このような「番組表」があると、事前にタイトルや全体の構成を知ることができて便利だし、もちろん、これを「ふり返り」に使うこともできる。
この春は、オンラインで授業を計画することになったので、「番組表」という見立てが、これまで以上にもっともらしく見えてきた。
【2020年4月7日(火)の番組表|9年間続けてきた新聞紙ふうのものから、思い切って変えてみた】
すでに、オンラインのミーティングは、日常に入り込んでいる(おかげで、部屋もだいぶ綺麗になった)。昨日、遠隔で会議(遠隔会議の練習)をしていたが、参加者の顔が並ぶ画面を見ながら、同僚たちの生活をのぞき見しているような、ちょっと不思議な気分になった。会議という時間でありながら、容赦なくピンポンが鳴る。“Stay at Home”で仕事をする(あるいは授業を受ける)ということは、じつは、プライベートな世界を「外に」ひらくことでもある。ここのところ、オンラインミーティングの画面キャプチャをSNSで見かけることが多くなったが、一人ひとりの「背景」までもが公開されることになる。このあたりは、じゅうぶんに注意したい。さまざまなトラブルの多くは、「視線」と無縁ではないからだ。
それにしても、オンラインのやりとりは疲れる。きっと、少しずつ身体をなじませていかなければならないのだろう。「番組」というとらえ方をするなら、「番組表」には表れてこない、コマーシャルのような“ブレイク”を意識的に組み込んだほうがよさそうだ。教員という立場で授業を配信する、あるいは議長という役目でオンライン会議の進行を担う場合には、ずっと画面を注視していなければならない。これが〈あたりまえ〉になってしまうのだろうか。
やはり、ぼくは教室での授業が好きだ。熱気を受けとめ、教室の空気が息づくのを感じながら(つまりは「濃厚接触」型の授業なのだが)過ごすのが理想だ。しばらくは、このもどかしさを上手に発散させながら、よりよい「番組」づくりに徹することにしよう。
(つづく)
*1:滞在型教育研究については、別途「生活のある大学」というテーマで文章を綴っている。 → 生活のある大学 カテゴリーの記事一覧 - まちに還すコミュニケーション