(2020.5.10)「社会的距離」ということばについては、まだもう少し勉強しなければならないので、随時、加筆・修正します。
[08] 2020年5月10日(日)
8.1 近づきたいけど、近づけない
2か月ほど前からだろうか、「社会的距離」や「ソーシャルディタンシング」ということばを頻繁に耳にするようになった。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、「外」に出るときには、お互いに2メートル(6フィート)の距離を取ろうということだ。もちろん、伝えたいことはわかる。とりわけ「社会(的)」ということばに敏感なわけでもないのだが、「社会的距離」という言い方には少なからず違和感をおぼえていた。
同僚の岡原さん(社研の委員長)は、4月のはじめ(だったと思う)に、「社会的距離」ということばについて、SNSに書き込んでいた。ぼくも、ちょうど似たようなことを考えていたので、すぐに反応した。もちろん、ことばに対する反応は、人によってちがう。それぞれの文脈で、ふさわしい使い方、扱われ方をしているにちがいない。だからこの違和感は、あくまでもぼくがこれまで親しんできた「社会的」ということばの理解によるものだ。たとえば、ぼくたちは、日常的にスマホをとおして絶え間なくやりとりしている。そのつながりは、まさに「ソーシャル」ということばで謳われているものだ。「ソーシャル」は、いささか軽いことばになっていることにも注意が必要だが、人と人との関係(そしてある種の関係への期待)を表しているはずだ。
ぼくたちは、2メートルの距離を取ることで、「近づかないで」「離れていよう」というメッセージを送り合う。その意味では「社会的距離」は、関係を示唆している。しかしながら、それほどの感情をともなうわけでもなく、たんにある一定の間隔を維持しておこうというものだ。つまり、「社会的距離」などというよりは「身体的距離」くらいのことばでいい。ネット上では、たとえばゴールデンリトリバーの成犬が2頭、大型セダン車の横幅、ソファなど、2メートル(6フィート)を理解するための目安が、さまざまな形で紹介されている(国によって標準サイズはちがうが)。これらは、身の周りにあるモノ(動物なども)を、ものさしにしようという提案だ*1。
ぼくが、「社会的距離」ということばを聞いて、まっ先に思い出すのはエドワード・ホールの『かくれた次元』だ*2。大学生のころに読んだ本(刊行は1966年、邦訳は1970年)だが、さっそく読み直してみた。ホールは、対人距離のありようについて、以下の4つに大別して整理している。
エドワード・ホール『かくれた次元』より
- 密接距離(intimate distance)15〜45cm:ごく親しい間柄に(のみ)許される距離(容易に相手の身体に接触できる)
- 個体距離(personal distance)45〜120cm:相手の表情が読み取れる距離(親しい人との日常会話)
- 社会距離(social distance)120〜350cm:相手に手が届かない距離(ビジネスなど公的な場面でのやりとり)
- 公衆距離(public distance)350cm以上:公的な関係にもとづく距離(講演会、演説など)
最近、ぼくたちが耳にするようになった「社会的距離」は、ホールのいう「社会距離」の範囲にある。だが、後述するように、ホールが考察している「距離」は、相手の表情が見えるか、声が聞こえるか、身体に手が届くかなど、人と人との〈間柄〉を理解する手がかりになるものだ。ぼくは、そういうとらえかたをしていたので、機械的に2メートル離れている状態を「社会的距離」と呼ぶことに違和感をおぼえたのだろう。
もう一つは、(これは岡原さんが触れていたことだが)「社会的距離」は、ぼくたちの社会生活における、さまざまな区別・差別と結びつくことばだという点だ。ちょうど、準備していた講義資料のスライドで「ラベリング理論」について触れている箇所があった*3。詳細は省くが、「ラベリング」(いわゆるレッテル貼り)は、誰か(何らかの規則をつくる誰か)がいるからこそ成り立つ。つまり、レッテルを〈貼る=貼られる〉という相互構成的な関係を考えるということだ。その文脈では、レッテルを〈貼る〉側と〈貼られる〉側とのあいだにつくられるのが「社会的距離」だということになる。だから、「社会的距離」を維持することは、飛沫感染を防ぐこと以上の意味を暗示するのだ。
もちろん、「社会的距離」ということばへの違和感は、さまざまな形で表明されている。たとえば、3月26日のワシントンポストには、すでに“Is ‘social distancing’ the wrong term? Expert prefers ‘physical distancing,’ and the WHO agrees.”というタイトルの記事が掲載されていた(ことをあとで知った)*4。他にも、'physical distancing'ということばを使いながら、注意喚起を試みているケースはいくつもある。
いっぽうで、「ソーシャル・ディスタンシング」の「ディスタンシング(distancing)」という語り口には注目しておきたい。つまり、「ing」で語られているという点だ。それは、ぼくたちに特別なふるまいを促すニュアンスだ。2メートルという間隔そのものではなく、その「距離」を維持しようという行動変容の側面が際立つ。調べてみたら、「ソーシャル・ディスタンシング」は「社会的距離戦略」と訳されることもあるようだ。やや大仰な感じもするが、「戦略」が加わると感染症対策であることが伝わりやすいのかもしれない。
いずれにせよ、いま求められているのは、外出するときにはお互いに適切な距離を保ちながら行動するということだ。そして、なにより大切なのは、この状況下で(2メートルという)「身体的距離」を保たなければならないものの、社会的(心理的)には、近づいていたいということだ。この状況だからこそ、ぐっと近づくのだ。
8.2 オンラインでつながる
そして4月30日。ついにぼくも「オンライン飲み会」デビューを果たすことになった。しばらく前から「オンライン飲み会」のことは見聞きしていたが、実際にじぶんで試してみることはなかった。食わず嫌いである。画面を見ながら「乾杯!」などできるはずがない。飲み会というのは、いまではご法度の「三密」でこそ成り立つのだ。そう信じていた。
かねてから、同門の諸兄と不定期に集まって食事をしている。仕事のこと、最近読んだ本のことなど、あれこれとおしゃべりをする。ぼくにとって、大切なひとときだ。しばらく集まっていなかったので、オンラインで開催してみようということになった。ぼくをふくめて4名。いつものメンバーである。とくに「オンライン飲み会」という言い方はしていなかったが、それぞれに食事や肴を準備していたようで、「ごぶさたしてます」というごく自然なあいさつではじまり(「乾杯!」はなかった)、気ままに食べたり飲んだりしながらおしゃべりをした。気の置けないメンバーなので、話がはずむ。話題はあちこちに広がったが、やはり、この窮屈な毎日を経て、ぼくたちの暮らしはどう変わってゆくのかということへの関心。働き方、住まい方はどうなるのだろうかということ。
あっという間に2時間が経ち、お開きになった。「退室」したら、すでにじぶんの部屋にいる。あっさりと終わってしまった感じだったが、終電を気にしてそわそわしたり、ぐったりしながら帰路についたりすることもない。味気なさはあるものの、便利なやり方なのかもしれない。
2020年4月30日(木)|Fumitoshi Kato on Instagram: “🍷じつは、初めての。”
これまでに幾度となく円卓(いつも、中華料理の店で集まる)を囲んできたメンバーなので、とても気楽に過ごすことができた。初対面の場合は、どうなのだろう。たとえば、いきなりリモートワークになった新入社員も、オンラインで受講しはじめた新入生も、さまざまな〈集まり〉について、きっとやりづらい想いでいるはずだ。それも、続けているうちに慣れてくるのだろうか。
ホールは、以下のように述べている。
…人々がそのとき互いにどんな気持を抱き合っているかが、用いられる距離を決めるのに決定的な要素だということである。激怒している人、自分の意見を強調する人などは、近寄ってこようとする。彼らは叫ぶことによって、いわば「洗いざらいぶちまけよう」とする。
エドワード・ホール『かくれた次元』p. 162
「オンライン飲み会」をふり返ると、物理的に隔てられていても、近づくことはできるように思えてくる。それは、しゃべることだけではなく、聞くこと、待つことなどもふくめて、4人が上手に距離(距離感)を調整できていたからだ。
2週間ほど前に、授業がはじまった。オンラインによる授業は、いまのところ(自己評価としては)まずまず順調である。ホールのいう4つの距離を思い出しながら、あらためてオンラインの授業について考えてみた。たとえば中〜大規模の、いわゆるスクール形式の教室で講義をする場合の距離感は、どのようなものだろう。教員は教壇という少し高いところに立ち、視線は一方的に学生たち向けられる。学生たちは、まっすぐ前を向き、スクリーンに投影されるスライド資料を見ながら講義を聞く。前列の学生との距離は近いが、それでもホールのいう「社会距離」は保たれている。後ろのほうの席にいれば、それは「公衆距離」だということになるだろう。後ろにいる学生の顔は見えない。学生も、場合によっては、同じ教室にいる受講者の後ろ姿ばかりがたくさん見えていて、教員の顔は見づらいはずだ。
授業中であっても、ぼくたちは、じぶんの身体を動かすこと、他者のふるまいを観察することで、距離の変化を察している。学生を指そうと教員が歩いてきたり、あるいは視線を送ってきたり。それを避けたいとき、学生たちは自然と身を縮めたり、視線をはずしたりしながら、自らのパーソナルスペースを守ろうとする。オンラインの講義は、そのあたりの距離の調節を難しく、また予見しづらいものに変容させている。たとえば100人くらいの学生が受講している場合、気分的には「公衆距離」でありながら、いきなり学生が大写しになって「個体距離」に置き換えられてしまう。学生の画面には、ぼくの顔が、ふだん教室で見ることのない「距離」で表示されているのだろう。
過日、「グループワークはこうする」で書いたように、オンラインの授業では、学生たちの顔がタイル状に並ぶ(設定によるけど)。そのときは、強制的に「距離」が決められている。近づこうという気持ち、遠ざかりたいという気持ち。じぶんが抱く気持ちを、画面の向こうに、どうやってやりとりすればいいのだろう。どんなときも、コミュニケーションは「距離」とともにある。
(つづく)
*1:たとえばSocial distancing means standing 6 feet apart. Here's what that actually looks like →
*2:エドワード・ホール(1966)『かくれた次元』みすず書房
*3:ハワード・ベッカー(1993)『アウトサイダーズ:ラベリング理論とはなにか』新泉社
*4:ワシントンポストの記事では、自然災害を経験したあとの日本のようすを引き合いに出しながら、人とのつながりこそが、さらに快復へと向かうのに大切な役割を果たすことを示唆している。Is ‘social distancing’ the wrong term? Expert prefers ‘physical distancing,’ and the WHO agrees.” → https://www.washingtonpost.com/lifestyle/wellness/social-distancing-coronavirus-physical-distancing/2020/03/25/a4d4b8bc-6ecf-11ea-aa80-c2470c6b2034_story.html