ちょっとエモい

2020年2月3日(月)

新年は6日から授業がはじまり、修士論文の提出、「卒プロ」の成果登録、さらに授業のほうも期末の課題を提出したり、成果報告会があったり。そう、いろいろとケジメをつける時節なのである。年末には、何本かの「ドラフト」を受け取った。あれ?学生たちは原稿をひとまず手放してのんびり過ごしていて、ぼくのほうは、年明け早々に赤ペンを手にして文章の束に向き合っているのか!なんか、ちがうような気もする。それなりの人数の同業者たちが同じように過ごしているはずなので、この状況はなんとかできそうなものだが、そんなことを言いながら、これがお決まりの過ごしかたになってしまった。気休めに、「採点ペン」というのを買ってみた。
論文は、(まずは「参考文献」を眺めて)“「謝辞」から読む派”である。構成や内容はもちろん大事だ。「謝辞」は、著者の体温を感じられるところがいい。当然、じぶんに対する謝意が書かれていればうれしいが、それを確認したいわけでもない。「謝辞」には、著者をとりまく人びとのことが、そして論文を仕上げるまでに起きたさまざまな出来事が、記されている。教員という立場で接してきたなかで、気づかずにいたことが際立つ場合もある。ようやく、いまになって合点がいくようなこともある。「謝辞」は、一人ひとりの試行錯誤の記録として、かかわりの履歴として読むのだ。

ここ数年、(修士論文や卒業論文にくわえて)プロジェクトの成果をまとめた冊子をつくる学生が増えている。ひと頃にくらべて、印刷・製本が手軽になったことも無関係ではないだろう。ネットで入稿できるし、少部数でも安くてそれなりに美しい仕上がりになる。とりわけ、フィールドワークやインタビューなどを介して人びとの暮らしに接近しながらプロジェクトをすすめた場合には、お礼に「論文」という堅苦しい成果を渡すよりも、冊子や写真集のような形で「お返し」するほうがいい。もういちど、お世話になったみなさんを訪ねて、できあがった冊子を手渡す。そのひとときは、格別だ。教員に成果を提出するのは、もっぱら「学事上の」ケジメなのであって、「現場」に何かを還すことが、本当のケジメなのかもしれない。それはぼく自身の心がけでもあるし、そうした試みについては応援したいと思う。

年末年始は「採点ペン」を手にすることが多いが、論文のほかにつくられる冊子の類いに文章をよせてほしいと頼まれることも増えた。ぼくなりの読後感や解説のような文章が、求められるのだ。早めに余裕をもって依頼する学生もいるが(むしろそのほうがめずらしい)、たいてい一週間くらいまえにいきなり依頼される。唐突に舞い込む原稿依頼に、最初は戸惑い、多少の嫌悪感をにじませる。こっちだって、じゅうぶんに忙しいのだ。
ぶつぶつと文句を言いながらも、結局は引き受ける。2000字にも満たない短い文章なのだから、そのくらいすぐ書けるだろうと、ぼくの筆力を試されているような気持ちになる。そう簡単に書けるわけでもない。一つひとつの「作品」に収録されることになるので、もう一度、著者がたどった思考の道筋を確認しなければならないのだ。その手続きには、おのずと感情が充ちる。地道にフィールドワークを続けてきたこと、文字を綴るのに苦心していたこと。いろいろと、思い出す。そう、つまり「エモい」というやつだ。文章をしたためながら、教員としてのじぶんが(いや教員という立場など忘れて)、ひとつのプロジェクトに接点をもちえたことに、素直に感謝したくなる(ピュアなのだ)。

毎年、研究室の成果報告のためにちいさな展覧会を開いている。今年で16回目になる。きょうは、パネルを仕上げて梱包し、明日には搬出するという段取りだ。1年前から決まっていたはずなのに、どうして間際になっても準備が終わっていないのだろう。このドタバタも、懲りずに毎年くり返されている。階下からは、打ち合わせの声や、プリンターがロール紙を送る音が聞こえてくる。来週のいまごろは、もう撤収も打ち上げも終わっている。明日は立春だ。

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写真は2月3日(月)。展覧会の準備がすすむ。