名前を呼び合う

[25] 2021年4月17日(土)

25.1 あたりまえのこと

昨年度、教員による大学への貢献のなかで、とくに顕著な活動を讃えようという、アワードがあたらしく設けられることになった*1。なるほど、たしかに昨年度は、授業のオンライン化のために時間とエネルギーを注いだ同僚たちが何人もいた。不安な状況にありながら、自発的に学事担当のスタッフと一緒になって、ぼくたちを支えてくれた。これは、もう本当に頭が下がる。ちゃんと讃えたい。そして、日常的に見えないところでも、さまざまな献身的な活動があることは容易に想像できる。だからこそ、たくさんの目で教員たちの活動を眺めて、ふだんとはちがうところから光を当てながら、感謝と尊敬の気持ちを表明することには意味があるのだ。
ぼくは、頭のなかではその価値を理解しながら、じつは、このアワードの設置が提案されたとき、ちょっと距離を置いていた。醒めた目で見ていたのだ。おそらく、これまであまり誉められたことがないからだろうか。そういえば、そのせいもあってか、人を誉めることもしない。「誉められると伸びるタイプなんです」などと口にする学生には、軽い怒りさえ覚えてしまう。きっと、ぼくが、素直じゃないだけのことだ。
やや唐突だが、『福翁自伝』の「学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ」の一節が頭に浮かんでいた。

…それからいろいろの話もあったが、細川の言うに「ドウしても政府においてただ捨てて置くという理由はないのだから、政府から君が国家に尽くした功労を誉めるようにしなければならぬ」と言うから、私は自分の説を主張して「誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何のことだ、人間が人間当たり前の仕事をしているに何も不思議はない、車屋は車を挽き豆腐屋は豆腐を拵えて書生は書を読むというのは人間当たり前の仕事をしているのだ、その仕事をしているのを政府が誉めるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めて貰わねばならぬ、ソンナことは一切止しなさい」と言って断ったことがある。これも随分暴論である。
『福翁自伝』> 王政維新 > 学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ

なんとなく、そのときの気分でこのエピソードを紹介したら、議場がしらけてしまったのを覚えている(すみませんでした)。だが、精神としては、まさに「書生は書を読む」という「人間当たり前の仕事」をするだけだと思う。大学教員が向き合っているのは、教育も研究も学内の仕事も社会貢献も、いろいろな仕事の複合だ。個人差はあるものの、教員たるもの真面目に授業をおこない、学生たちの変化や成長に少しでも役立とうとするのは当然のことなのであって、それをいちいちアワードなどという仕組みにして誉めるなんて、なんだか甘ったるい感じをいだいてしまう。言われなくても、いつだって「最高の授業」をしようと心がけている。ふだんから「ありがとう」と声をかけあっていれば、それでじゅうぶんではないか。そう思いながらも、せっかくの提案に激しく反対する理由もなかった。

 

25.2 名前から名前へ

ぼくは、相変わらず斜に構えていたが、職責上、審査にかかわることになった。推薦の受付期間を経て、栄えある第1回の候補者たちが揃った。このアワードでは、専任教員のみならず、非常勤や訪問講師、客員教員、特別招聘教員、特任教員といった形で教育に携わっている教員がノミネートされる資格がある*2。推薦を受けた候補者たちのリストを見ると、やっぱりそうだという名前も、意外な名前も、そして恥ずかしながらふだんはあまり目にすることのない名前もあった。たしかに、こういう仕組みをつくると、ぼくたちが気づかないところで、素晴らしい活動をしている先生がたの名前を目にすることができる。そうか、アワードも悪くない。ちょっと気持ちが動いた。

新年度をむかえて授業開始の日、アワードの発表と授賞式がおこなわれた。この状況下なので、オンラインでの開催だ。ぼくは、授賞者の名前とともに、賞状の文面を読み上げた。そして、名前を呼ぶ、ということの意味をあらためて考えた。

f:id:who-me:20210417074716p:plain

一人ひとりが、順番に「授賞のよろこび」を語った。みなさん、まるで決められていたかのように、話の展開が似ていた。まずよろこびの気持ちを表し、そしてじぶんがもらうなんて(身に余る光栄だ)と謙遜する。さらに、これはじぶん一人が評価されたのではなく、たくさんの人びとの出会いと協力があって、そのおかげで実現したのだ。代表として、たまたまじぶんが受け取っているようなものだと語る。そして、名前を挙げる。授賞者として名前を呼ばれた人が、あいさつのなかで、さらに名前を呼ぶ。名前から名前へ。こうして、人と人とのつながりや広がりが見えてくる。みんなが順番にその話をするのだから、ぼくたちは、じつに多くの名前を耳にすることになった。

授賞式を終えて、このアワードというのは、(悪くないどころか)なかなかよいものだと、考えをあらためた。ふだんから「ありがとう」を言い合うことは大切だ。おなじキャンパスに集い、居合わせたどうし(同志?)なのだから、お互いのことを気遣い、見守るのは当然だろう。COVID-19の影響で、ちょっとした立ち話や偶然の出会いなど、キャンパスに必要なはずの「余白」がそぎ落とされた。世の中の「こんにちは」「さようなら」は、格段に減ってしまったのではないだろうか。相手を慮る力が損なわれ、じぶんを守ろうとして身勝手なことをする。バラバラになりそうで、辛い思いをすることもある。
少しずつ整備がすすんでいる滞在棟の界隈には、「ヴィレッジ」という呼称があたえられた。ぼくたちは、いわば、この地で暮らしを営む村民なのだ。そして、年に一度くらいは、アワードという儀式をおこない、自身も一人の村民であることをたしかめる。考えてみれば、この30年、学生たちを讃えたり、近隣の人びとと交流したりすることはあっても、教員がお互いの名前を呼び合う「年中行事」はなかった。この村で、ようやくあたらしいお祭りがはじまったということか。新緑のキャンパスで(あるいはオンラインで)、年に一度の春祭りを楽しみにしながら「書生は書を読む」というあたりまえのことをくり返そう。

なにより、この記念すべき初めてのお祭りで名前を呼び、表彰状に書かれた文を読み上げるという、たいそうな役目をいただいたことこそが、ぼくにとっては身に余る光栄だったのだ。ありがとうございました。そして、授賞したみなさん、おめでとうございます。