ふた月

[09] 2020年5月16日(土)

(4月16日〜5月15日)新型コロナウイルスと大学での業務について、備忘をかねて「ひと月」という記事(3月4日〜4月15日)を書いてから、ちょうど1か月。その後について、同じように書き留めておきたい*1ようやく授業もはじまった。気づけば、長袖から半袖に。ここ数日は、夏日に。家に閉じ込められている間に、季節は確実に動いている。

4月17日(金)
  • 東京都の新規患者にかんする報告件数:204人
4月21日(火)
4月22日(水)

9:00〜19:00!朝から晩までオンライン会議(×6)。これまでも、ときどきこういう日があったが、見てのとおり「余白」ゼロの一日。いつもなら昼食(おべんとう)付きの会議も、こういう状況でデリバリーが手配されているわけでもないし。これだけあると、さすがにくたびれる(とくに重要な協議事項のある会議の進行はなかなかキツい)。

  • その1(60分)
  • その2(60分)
  • その3(120分)
  • その4(120分)議事進行
  • その5(120分)議事進行
  • その6(120分)
4月23日(木)開校記念日
  • 学生との面談(30分×4)
  • 大学院生とのミーティング(120分)
4月24日(金)
  • 学生との面談(30分×4)
  • 「経済的に困難な塾生を対象とするオンライン授業受講開始支援補助制度」への申請についてが公開される。

4月25日(土)

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4月28日(火)
4月29日(水)昭和の日
  • 学生との面談(45分×2)
4月30日(木)

授業開始。これまで研究会だけはスタートさせていたが、講義科目のはじまり。そして、ついに「オンライン飲み会」デビュー。なかなか楽しかった!

  • 授業:フィールドワーク法(90分)
  • 学生との面談(30分×2)
  • オンライン飲み会(120分くらい)

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Fumitoshi Kato on Instagram: “🍷じつは、初めての。”

5月3日(日)憲法記念日
5月4日(月)みどりの日
  • 授業・学期前半科目:リフレクティブデザイン(180分)
  • 学生との面談(45分×2)
  • 新型コロナウイルス対策本部、緊急事態宣言を全国一律で31日まで延期することを決定。
5月5日(火)こどもの日

卒業生たちとやりとりする機会があり、どうやらOB/OGたちも在宅勤務だということがわかった。声をかけてみたら、30名くらいが研究会に参加してくれた(フランスやシンガポールからも)。そして、誕生日もお祝いしてもらった。🎂

  • 研究会(180分)

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Fumitoshi Kato on Instagram: “【2020年5月5日(火)|こどもの日】 🎏いくつになっても、誕生日は「こどもの日」だ。友人、同僚、お世話になっているかたがた、そして卒業生や学生たちからも、お祝いのメッセージが届いた。あらためて、みなさん、ありがとうございました。…”

5月6日(水)憲法記念日振替休日
  • 会議(60分×2)
  • 学生との面談(45分)
  • 大学院授業(120分くらい)

5月8日(金)
5月10日(日)
5月11日(月)
  • 授業・学期前半科目:リフレクティブデザイン(180分)
5月12日(火)
  • 研究会(180分)
5月13日(水)
  • 修士課程オンライン中間発表
  • 会議(120分×2)
5月14日(木)
  • 授業:フィールドワーク法(90分)
  • 学生との面談(45分)
  • 緊急事態宣言39県で解除(8都道府県は継続)される。
5月15日(金)

ひさしぶりに大学へ。およそ1か月半ぶり。滞在時間は、わずか2時間程度。

  • 会議(120分)
  • 学生との面談(45分)
  • 東京都の新規患者にかんする報告件数:9人
  • (いまここ:緊急事態宣言からもうすぐ6週間。)

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:必要に応じて、適宜加筆・修正します

社会的距離

(2020.5.10)「社会的距離」ということばについては、まだもう少し勉強しなければならないので、随時、加筆・修正します。

[08] 2020年5月10日(日)

8.1 近づきたいけど、近づけない

2か月ほど前からだろうか、「社会的距離」や「ソーシャルディタンシング」ということばを頻繁に耳にするようになった。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、「外」に出るときには、お互いに2メートル(6フィート)の距離を取ろうということだ。もちろん、伝えたいことはわかる。とりわけ「社会(的)」ということばに敏感なわけでもないのだが、「社会的距離」という言い方には少なからず違和感をおぼえていた。
同僚の岡原さん(社研の委員長)は、4月のはじめ(だったと思う)に、「社会的距離」ということばについて、SNSに書き込んでいた。ぼくも、ちょうど似たようなことを考えていたので、すぐに反応した。もちろん、ことばに対する反応は、人によってちがう。それぞれの文脈で、ふさわしい使い方、扱われ方をしているにちがいない。だからこの違和感は、あくまでもぼくがこれまで親しんできた「社会的」ということばの理解によるものだ。たとえば、ぼくたちは、日常的にスマホをとおして絶え間なくやりとりしている。そのつながりは、まさに「ソーシャル」ということばで謳われているものだ。「ソーシャル」は、いささか軽いことばになっていることにも注意が必要だが、人と人との関係(そしてある種の関係への期待)を表しているはずだ。

 ぼくたちは、2メートルの距離を取ることで、「近づかないで」「離れていよう」というメッセージを送り合う。その意味では「社会的距離」は、関係を示唆している。しかしながら、それほどの感情をともなうわけでもなく、たんにある一定の間隔を維持しておこうというものだ。つまり、「社会的距離」などというよりは「身体的距離」くらいのことばでいい。ネット上では、たとえばゴールデンリトリバーの成犬が2頭、大型セダン車の横幅、ソファなど、2メートル(6フィート)を理解するための目安が、さまざまな形で紹介されている(国によって標準サイズはちがうが)。これらは、身の周りにあるモノ(動物なども)を、ものさしにしようという提案だ*1

ぼくが、「社会的距離」ということばを聞いて、まっ先に思い出すのはエドワード・ホールの『かくれた次元』だ*2。大学生のころに読んだ本(刊行は1966年、邦訳は1970年)だが、さっそく読み直してみた。ホールは、対人距離のありようについて、以下の4つに大別して整理している。

  • 密接距離(intimate distance)15〜45cm:ごく親しい間柄に(のみ)許される距離(容易に相手の身体に接触できる)
  • 個体距離(personal distance)45〜120cm:相手の表情が読み取れる距離(親しい人との日常会話)
  • 社会距離(social distance)120〜350cm:相手に手が届かない距離(ビジネスなど公的な場面でのやりとり)
  • 公衆距離(public distance)350cm以上:公的な関係にもとづく距離(講演会、演説など)
エドワード・ホール『かくれた次元』より

最近、ぼくたちが耳にするようになった「社会的距離」は、ホールのいう「社会距離」の範囲にある。だが、後述するように、ホールが考察している「距離」は、相手の表情が見えるか、声が聞こえるか、身体に手が届くかなど、人と人との〈間柄〉を理解する手がかりになるものだ。ぼくは、そういうとらえかたをしていたので、機械的に2メートル離れている状態を「社会的距離」と呼ぶことに違和感をおぼえたのだろう。

もう一つは、(これは岡原さんが触れていたことだが)「社会的距離」は、ぼくたちの社会生活における、さまざまな区別・差別と結びつくことばだという点だ。ちょうど、準備していた講義資料のスライドで「ラベリング理論」について触れている箇所があった*3。詳細は省くが、「ラベリング」(いわゆるレッテル貼り)は、誰か(何らかの規則をつくる誰か)がいるからこそ成り立つ。つまり、レッテルを〈貼る=貼られる〉という相互構成的な関係を考えるということだ。その文脈では、レッテルを〈貼る〉側と〈貼られる〉側とのあいだにつくられるのが「社会的距離」だということになる。だから、「社会的距離」を維持することは、飛沫感染を防ぐこと以上の意味を暗示するのだ。

もちろん、「社会的距離」ということばへの違和感は、さまざまな形で表明されている。たとえば、3月26日のワシントンポストには、すでに“Is ‘social distancing’ the wrong term? Expert prefers ‘physical distancing,’ and the WHO agrees.”というタイトルの記事が掲載されていた(ことをあとで知った)*4。他にも、'physical distancing'ということばを使いながら、注意喚起を試みているケースはいくつもある。

いっぽうで、「ソーシャル・ディスタンシング」の「ディスタンシング(distancing)」という語り口には注目しておきたい。つまり、「ing」で語られているという点だ。それは、ぼくたちに特別なふるまいを促すニュアンスだ。2メートルという間隔そのものではなく、その「距離」を維持しようという行動変容の側面が際立つ。調べてみたら、「ソーシャル・ディスタンシング」は「社会的距離戦略」と訳されることもあるようだ。やや大仰な感じもするが、「戦略」が加わると感染症対策であることが伝わりやすいのかもしれない。

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いずれにせよ、いま求められているのは、外出するときにはお互いに適切な距離を保ちながら行動するということだ。そして、なにより大切なのは、この状況下で(2メートルという)「身体的距離」を保たなければならないものの、社会的(心理的)には、近づいていたいということだ。この状況だからこそ、ぐっと近づくのだ。

8.2 オンラインでつながる

そして4月30日。ついにぼくも「オンライン飲み会」デビューを果たすことになった。しばらく前から「オンライン飲み会」のことは見聞きしていたが、実際にじぶんで試してみることはなかった。食わず嫌いである。画面を見ながら「乾杯!」などできるはずがない。飲み会というのは、いまではご法度の「三密」でこそ成り立つのだ。そう信じていた。
かねてから、同門の諸兄と不定期に集まって食事をしている。仕事のこと、最近読んだ本のことなど、あれこれとおしゃべりをする。ぼくにとって、大切なひとときだ。しばらく集まっていなかったので、オンラインで開催してみようということになった。ぼくをふくめて4名。いつものメンバーである。とくに「オンライン飲み会」という言い方はしていなかったが、それぞれに食事や肴を準備していたようで、「ごぶさたしてます」というごく自然なあいさつではじまり(「乾杯!」はなかった)、気ままに食べたり飲んだりしながらおしゃべりをした。気の置けないメンバーなので、話がはずむ。話題はあちこちに広がったが、やはり、この窮屈な毎日を経て、ぼくたちの暮らしはどう変わってゆくのかということへの関心。働き方、住まい方はどうなるのだろうかということ。
あっという間に2時間が経ち、お開きになった。「退室」したら、すでにじぶんの部屋にいる。あっさりと終わってしまった感じだったが、終電を気にしてそわそわしたり、ぐったりしながら帰路についたりすることもない。味気なさはあるものの、便利なやり方なのかもしれない。

2020年4月30日(木)|Fumitoshi Kato on Instagram: “🍷じつは、初めての。”


これまでに幾度となく円卓(いつも、中華料理の店で集まる)を囲んできたメンバーなので、とても気楽に過ごすことができた。初対面の場合は、どうなのだろう。たとえば、いきなりリモートワークになった新入社員も、オンラインで受講しはじめた新入生も、さまざまな〈集まり〉について、きっとやりづらい想いでいるはずだ。それも、続けているうちに慣れてくるのだろうか。
ホールは、以下のように述べている。

人々がそのとき互いにどんな気持を抱き合っているかが、用いられる距離を決めるのに決定的な要素だということである。激怒している人、自分の意見を強調する人などは、近寄ってこようとする。彼らは叫ぶことによって、いわば「洗いざらいぶちまけよう」とする。

エドワード・ホール『かくれた次元』p. 162

「オンライン飲み会」をふり返ると、物理的に隔てられていても、近づくことはできるように思えてくる。それは、しゃべることだけではなく、聞くこと、待つことなどもふくめて、4人が上手に距離(距離感)を調整できていたからだ。

2週間ほど前に、授業がはじまった。オンラインによる授業は、いまのところ(自己評価としては)まずまず順調である。ホールのいう4つの距離を思い出しながら、あらためてオンラインの授業について考えてみた。たとえば中〜大規模の、いわゆるスクール形式の教室で講義をする場合の距離感は、どのようなものだろう。教員は教壇という少し高いところに立ち、視線は一方的に学生たち向けられる。学生たちは、まっすぐ前を向き、スクリーンに投影されるスライド資料を見ながら講義を聞く。前列の学生との距離は近いが、それでもホールのいう「社会距離」は保たれている。後ろのほうの席にいれば、それは「公衆距離」だということになるだろう。後ろにいる学生の顔は見えない。学生も、場合によっては、同じ教室にいる受講者の後ろ姿ばかりがたくさん見えていて、教員の顔は見づらいはずだ。
授業中であっても、ぼくたちは、じぶんの身体を動かすこと、他者のふるまいを観察することで、距離の変化を察している。学生を指そうと教員が歩いてきたり、あるいは視線を送ってきたり。それを避けたいとき、学生たちは自然と身を縮めたり、視線をはずしたりしながら、自らのパーソナルスペースを守ろうとする。オンラインの講義は、そのあたりの距離の調節を難しく、また予見しづらいものに変容させている。たとえば100人くらいの学生が受講している場合、気分的には「公衆距離」でありながら、いきなり学生が大写しになって「個体距離」に置き換えられてしまう。学生の画面には、ぼくの顔が、ふだん教室で見ることのない「距離」で表示されているのだろう。
過日、「グループワークはこうする」で書いたように、オンラインの授業では、学生たちの顔がタイル状に並ぶ(設定によるけど)。そのときは、強制的に「距離」が決められている。近づこうという気持ち、遠ざかりたいという気持ち。じぶんが抱く気持ちを、画面の向こうに、どうやってやりとりすればいいのだろう。どんなときも、コミュニケーションは「距離」とともにある。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:たとえばSocial distancing means standing 6 feet apart. Here's what that actually looks like →

*2:エドワード・ホール(1966)『かくれた次元』みすず書房

*3:ハワード・ベッカー(1993)『アウトサイダーズ:ラベリング理論とはなにか』新泉社

*4:ワシントンポストの記事では、自然災害を経験したあとの日本のようすを引き合いに出しながら、人とのつながりこそが、さらに快復へと向かうのに大切な役割を果たすことを示唆している。Is ‘social distancing’ the wrong term? Expert prefers ‘physical distancing,’ and the WHO agrees.” → https://www.washingtonpost.com/lifestyle/wellness/social-distancing-coronavirus-physical-distancing/2020/03/25/a4d4b8bc-6ecf-11ea-aa80-c2470c6b2034_story.html  

夜の散歩

2020年5月3日(日)

4月は、落ち着かなかった。本来であれば、一気にキャンパスが華やぐ時期だ。緊急事態宣言が出される前日に、(ひとまず)連休明けまでキャンパスへの立入禁止が決まったので(※そして、さらに延長)、4月6日に研究室を片づけに行って、それ以来、キャンパスには足をはこんでいない。「在宅勤務」は、もうすぐ1か月になる。

タイミングが悪かった。昨秋からあたらしい役目を担うことになって、それに合わせて家での過ごし方を少しずつ変えようとしていたところだった。たとえば、いままでよりも、なるべく長い時間をキャンパスで過ごすように心がけていた。もちろん「いるだけ」では役に立たないが、それでも、大学にいれば、電話よりもメールよりも早く済むことがたくさんあった。
極端に言えば、家に帰ったら遅めの夕食を食べて、あとは寝るだけというような生活を、この2年間は続けるつもりでいた。だからじぶんの部屋を片づけて、どちらかというと、家ではノンビリできるように家財道具も整理した。そんな生活に移行しつつあったところに、この新型コロナウイルスの騒ぎがやってきて、「おうちにいよう」ということになった。ぼくは、「職場で過ごそう」と思っていたので、滑稽なほどに、逆行していたのだ。だから、ふたたび、家の「書斎」を充実させるべく、片づけをしたりモノを調達したりしている。

授業開始は4月30日からだが、毎週火曜日の研究会(ゼミ)は、当初の予定どおり7日からスタートした。オンラインでのやり方を、いろいろ試している。今年の春から加わったメンバーには、当惑があるはずだ。
相変わらず、いろいろな調整や意思決定にかかわるやりとりは多い。少し気を抜いていると話がいくつもに分岐し、昼夜を問わず容赦なく送られてくるのでややこしくなる。なんだか、曜日の感覚も薄らいできた。
オンラインの会議は、とくに議事進行を担うときはくたびれる。同じ会議室にいれば、顔色をうかがったり、目配せしたりしながら、(多少なりとも)話の流れをかたどることができるが、画面ごしだとなかなか難しい。ある午後、大学院の大事な会議の打ち合わせをしている最中に、遠隔のシステムがダウンした。ちょうど、他大学でもオンラインの授業がはじまったタイミングだ。不具合で、数1000人の学生が受講できなかったというニュースも耳にした。バックアップのことを、あまり考えていなかったことにも気づく。会議はなんとか無事に終えることができたが、ぐったりとなった。
もちろん、疲れた身体で家まで運転して帰るわけでもなく、瞬時にキッチンに移動できる。午後7時のニュースを観ながら、晩ごはんを食べる。そんな、どこにでもありそうなこと(あってもよさそうだったこと)自体が、新鮮に感じられる。いつもなら、まだ50キロほど離れた職場にいるのだ。夜が、格段に長くなった。睡眠時間は増えたように思うが、ずっと画面を注視している疲れもあってか、とりわけ調子がいいわけでもない。
夜には、散歩をするようになった。人気のないまちを歩くのは、それなりに楽しい。デリバリーの自転車が行き交う。まちは、とても静かだ。ふだんなら賑わっているはずの界隈は寂しくて、少し怖い感じさえする。

オンラインでできることは、たくさんある。あらためて、それを実感しながら過ごしているが、キャンパスで誰かとすれ違ったり立ち話をしたりすることがなくなってしまった。一つひとつのコミュニケーションが、すべて「スケジュール」に巻きとられて、「余白」がそぎ落とされてゆく。「ムダな時間」は省かれたのかもしれないが、通りすがりが懐かしい。気まぐれに同僚たちに連絡をして、10〜15分程度のおしゃべりをするようになった。ふだんなら面倒がって、そんなことはしないはずだが、〈声〉を聞くだけでほっとする。

ひさしぶりの道は、鮮やかなツツジで彩られていた。そういえば、この時期、フィールドワークの課題を出すと、学生たちからツツジの写真が送られてくるのだった。いつの間にか、長袖から半袖に。季節は確実に動いている。

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写真は4月29日。夜の散歩。