走りながら

2019年10月1日(火)

本日、10月1日付けで、大学院 政策・メディア研究科委員長の役目を担うことになった。総合政策、環境情報の両学部長も、あたらしい。引き継ぎなどもふくめて、諸々の調整や手続きをすすめている間に、新学期になった。ずいぶん、慌ただしい夏だった。

ぼくたちは、よく「走りながら考える」と言う。それは、まずは試してみようという、〈実験〉を志向する態度の表明かもしれない。スピードを大切にするということだろうか。場合によっては、「とりあえず」や「見切り発車」のように、ちょっと荒削りなニュアンスを感じる。だが、じつは「走りながら考える」のは、仕組み上、やむをえないことでもあるのだ。しばらく前に読んだ内田さんの『街場の教育論』のなかで、映画『スピード』のシーンを紹介しながら、「走りながら考える」ことの難しさが語られていたのを思い出した。思い出したついでに、もういちど『スピード』を観た。映画の公開は1994年。懐かしい。街角の公衆電話が鳴ったり、大きなデスクトップのモニター(CRT)が出てきたり、この25年間の変化を味わった(どうでもいいけど、キアヌ・リーブスもサンドラ・ブロックも、初々しい)。

バスには、爆弾が仕掛けられている。そして、(ひとたび起動すると)時速50マイル以上で走り続けなければならない。速度が落ちると、乗客を乗せたバスは爆発するのだ。さてどうする。ジャックは、バスの速度を維持しながら、乗客を救うための方法を考えなければならない。文字どおり、「走りながら考える(そして行動につなげる)」ということだ。

「教育論」で、このシーンが引き合いに出されるのは、たとえばカリキュラムという仕組みも、似たような理解で向き合うべき性質のものだからだ。実際に、学部のカリキュラム改訂にかかわったときには、その難しさを実感した。カリキュラムは、学生たちが、卒業に向けて学修計画を立てるための指針だ。さまざまな要件もある。学生たちの毎日は、入学したときから、(卒業するまで)数年間にわたってカリキュラムのもとで動きはじめる。その仕組みを少しでも変えようとするならば、すでに入学している学生たちの動きを妨げることなく、実現しなければならない。「走りながら考える」のである。現実的には、たとえば複数の仕組みが併存したまま、入学年度に応じてちがうルールを適用するやり方になる。ウェブのリニューアルなら、準備をしておいて、あるタイミングで切り替えればいいが、カリキュラムのような仕組みは、そうはいかない。大きな変化をもたらすためには、なおさらの工夫が必要だ。時間もかかるだろう。

大学院が創設されたのは、1994年。偶然にも、『スピード』が公開されたのと同じ年だった。なるほど。大学院の仕組みも、あれから25年間、ずっとスピード感を保ちながら動き続けてきたのだ。いちどはじめたら、止まることはできない。そもそも、〈学び〉を止めることなどできないのだ。

というわけで、あたらしい仕事のはじまり。さてどうする。なかなか大変なことになりそうな予感。もはや、スピードを緩めることはできない。「走りながら」向き合うしかないのだ。みなさん、どうぞよろしくお願いいたします。🙇‍♂️

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写真は9月30日。2年間、ぼくを忙しくしてくれた某委員会の最後?の役目を終えた直後。