2年目のはじまり。

2020年10月6日(火)

あっというまに1年が過ぎた。昨年の10月1日に「走りながら」と「おかしら日記」を書いて、あたらしい仕事をスタートさせた。「おかしら日記」は、無事に「復活」し、1年間続いている(思っているよりも早く番が回ってくる感じだ)。ドタバタと毎日が過ぎてゆくので、少しでも記録を残しておこうと、雑文だけは書くようにしている。
春からは、COVID-19のせいで、窮屈な日が続いている。1年が過ぎた、と書いたが、そのうちの半分(いや、半分以上か)は、思うように人に会うこともできずにいる。キャンパスに入ること、移動することさえままならない。まともな仕事をした感覚がないまま(もちろん、諸々のCOVID-19対応のことで、忙しく動いてはいる)、任期が半分になった。

秋学期をむかえるにあたって、少しずつ、キャンパスに戻ることができるように準備がすすめられることになった。もちろん、まだ安心はできない。ぼく自身は、さすがに“Stay Home”に飽きてきて、(くわえて、少し制限が緩められたこともあって)週に数回はキャンパスに出かけるようになった。あらゆることが半年ぶりで、すべてが懐かしい。交通渋滞さえ、ひさしぶりだと、なんだか楽しい。

9月の初めには、新入生向けのキャンパスツアーをおこなった。キャンパスに入るのは初めてだという一年生たちを案内して、猛暑のなかを歩く。マスクは苦しいし、汗はだらだらと背中を流れて、でも、地面からエネルギーを吸収しているような感じ。大げさにいえば、生きているという実感。

キャンパスには、あたらしく入構ゲートが設置された。感染拡大を予防するために、大きなファンや消毒用のキットが準備されている。ドアには、直接ノブに触れずに(肘などで)ドアを開けることができるような、補助具が取り付けられた。同僚たちと、『SFCでのあたらしい生活様式』というビデオクリップもつくった。少しずつ、秋学期をむかえるモードになってきた。

9月入学の新入生のために、メッセージビデオもつくった。すべての学部長、大学院の研究科委員長宛てに依頼文が届き、それぞれ「形式を問わず」「任意の方法(スマートフォン、タブレットPC による撮影や、Zoomの録画機能を含みます)」で収録すればよいとのことだった。ぼくは、迷わず自撮りすることに決めた(じつは、あまりやったことがない)。せっかくなので、キャンパスを歩きながらにしよう。個人的には長回しで撮った映画やビデオが好きなので、カメラを止めずに。これは、なかなか大変だった。5分のメッセージを撮るのに、何度もやり直した(数えていないが、20テイクくらいはあったと思う)。長回しなので、間もなく終わりそうだというときにトチってしまうと、最初からもう一度ということになる。暑いし、声は枯れてくるし、予想していたよりもずいぶん時間とエネルギーを使った。
じつは、お願いすれば、三田キャンパスで収録してもらえることもできたようだ。でも、やはり“ホーム”(=湘南藤沢キャンパス)で撮ってよかった。新入生向けの特設サイトから、全学部・研究科のメッセージを観ることができるが、歩きながら自撮りしているのは、ぼくだけだった(ちょっとだけ自負を込めて)。

直前まで迷っていたが、昨年の夏に急逝した母の一周忌は、決行することにした。なにしろ高齢者が多いし、会食なしが前提なら、もう集まらなくてもいい(集まらないほうがいい)のではないかと考えていた。しかも、猛暑の日が続いている。それでも、考えたあげく、結局は顔を合わせることにした。「おかしら」の一員になったことは、直接報告することができたが、その後のこと、近況などを伝える機会はなくなってしまった。
仕事をあまり断ることがない。そんな性分だから、しかたない。頼まれ事もいいが、代わりなんていくらでもいるのだから、もっとじぶんのやりたいことをやりなさいと、母はいつも苦言を呈していた。あいにく小雨模様だったが、少し気温が下がったおかげで、黒い服を着ていてもなんとかなった。まぁ相変わらず忙しくやっていますと、墓前で報告した。これで、少し落ち着いた気分になった。

9月の後半には、夏季「特別研究プロジェクト」を開講した。いわゆる「集中講義」のようなものだ。個人的には、宿泊を伴うかたちで実施したかった(これまでも、夏休み・春休み中の「特別研究プロジェクト」では、国内外に出かけてフィールドワークをおこなった)。状況が好転するのではないかとわずかに期待しながら、夏の終わりに日程を設定しておいたが、やはり学生たちとどこかに出かけるのは、まだ先になりそうだ。
とはいえ、キャンパスでの開講は実現した。秋学期をむかえる練習のようなもので、この半年間に失った感覚を取り戻すことができればと思った。履修者は「研究会」の学生たちだ。ひさしぶりに、キャンパスで会う。ふだん、あたりまえだったことなのに、なぜこんなに心が揺れるのか。不思議なほど、うれしかった。
家族以外との“リアル”なコミュニケーションが、あまりにもひさしぶりだったので、初日はぐったりと疲れてしまった。学生たちも、ひさしぶり(およそ半年ぶり)のキャンパスに、大喜びのようすだった。春学期をとおしてオンライン講義に慣れてきて、その便利さは身体で感じている。オンラインのよさは、たくさんあると実感しながらも、ただキャンパスで会う、それだけのことが愛おしかった。

ようやく秋らしくなって、いよいよ新学期というところで、トラブル発生(長くなるので、ひとまず省略)。やれやれ、ハプニングは絶えない。2年目のはじまり。

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写真は9月17日。2メートルを体感してみる。(via 堤飛鳥)

マスク

2020年9月29日(火)*1

幸いなことに、ここ10年以上、風邪をひいたことがない。毎年、季節になると苦しんでいる人がいることを思うと申し訳ないが、花粉症もない。だから、マスクをする"日常"が訪れることなど想像もしていなかった。視覚的なことにかぎっていえば、マスクは顔の一部を覆い、自分らしさを消すアイテムだ。なにより、口元が隠されてしまうので、表情を知る手がかりが、とたんに乏しくなる。ベースボールキャップとサングラスが加われば、(おそらく目立つが)すぐに「怪しい人」になれる。
緊急事態宣言が出されたころは、なかなかマスクが手に入らなかった。すでに述べたとおり、ふだんからマスクをすることがなかったので、家にストックがあるわけでもない。結局、ネットで探して、不本意ながら高価なマスクを買った。慣れていないと、マスクとともに暮らすのは大変だ。運動不足解消のために続けていた散歩も、マスクをしたままだと、気温の高い日には苦しく感じるようになった。

そして、これは私たちの適応力の高さなのだと思うが、いまやマスクは"日常"になった。かつての「怪しい人」が、たくさん歩いているのだ。先ごろ、マスク専門店が開業したというニュースを見た。実際に外に出て見回すと、マスクは装いの一部として浸透しつつあることに気づく。品薄だったころとは、大ちがいである。機能はもちろん大事なのだが、色や柄、素材も、じつに多様だ。個人的には、黒いマスクはあまり好きではなかったが、その感覚も和らいできた。洋服や持ち物の色とマッチしているマスク姿の人を見かけると、怪しいというより「素敵な人」だと思うことさえあるのだから不思議だ。わずか半年で、私自身のマスク観が変わってしまったようだ。マスクは、自分らしさを消すのではなく、主張するメディアとして理解することもできるだろう。

マスクをする"日常"は、同調を求める圧力に充ちている。秋学期に向けて、少しずつキャンパスの利用を再開しようと準備をすすめているいま、感染拡大を防止するためにマスクの着用を求めることになる。キャンパスにかぎらず、公共交通機関やさまざまな施設を利用するとき、そして、まちを歩くときも、マスクをつけることがあたりまえになりつつある。
だが、うっかりマスクを忘れてしまうこともある。そんなときには、後ろめたさを感じたり、勝手に人びとの視線を冷たく受けとめたりする。いっぽう、マスクをつけていない姿を見たときの人びとの反応が、(いささか誇張されながらも)冷酷に映る場面もある。じつは、息が苦しくて、ちょっとマスクをはずしているだけかもしれない。肌が敏感で、マスクとの摩擦でどうしてもつけることができない場合もあるだろう。人それぞれの事情があることは、まちがいない。

学生や同僚たちに会う機会が、戻ってくる。およそ半年ぶりの再会を楽しみにしながら、マスクをする"日常"について、あれこれと考えを巡らせてみる。マスクをしているかどうかは、見ればすぐにわかる。そのわかりやすさのせいで、私たちの感性が鈍ってしまうことはないだろうか。マスクをしていない、その姿を見ただけで、感情的に反応してはいないだろうか。そんなとき、その背後にある事情を想像してみる。ちょっとしたゆとりを持つことが大切だ。
じつは、マスクにくらべると、はるかにわかりづらい状況がたくさんあることに、あらためて思いいたる。元気そうに見えて、じつは病気を患っている人もいる。視覚的な手がかりだけで、お互いの置かれている状況を知ることには限界があるのだ。親しい間柄であったとしても(というより、親しい間柄であればこそ)、わかり合えないこともある。
私たちは、社会生活を送るうえで、多少の窮屈は受け容れざるをえないことがある。だが、一人ひとりの考えも態度も多様で、全員がちがう。それでいて、みんなが孤立しているわけでもない。他者への想像力は、そうした複雑な日々のなかで、他者とのかかわり合いのなかで、培われていくものだ。