大学のいま

2021年6月8日(火)

出典:大学のいま|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

あの騒ぎがきっかけになって、本格的な検討がはじまった。あたらしく導入された「時間割」は、ようやく定着してきたようだ。最初はやはり賛否両論あって、どのように落ち着くのか想像できなかった。そもそも正解はわからず、しかも簡単に「リセット」できるようなことではないので、意見の衝突は避けられない。幸い、学生も教職員もバラバラに分断されてしまうことなく、ひとまず平穏が保たれている。
ぼくは、何人かの同僚たちと、いっそのこと「設置基準」などにとらわれることなく、ぼくたち独自の「基準」にもとづいた、あたらしい「塾」をつくろうと提案していたのだが、夢ばかり語るなと揶揄され、若手の教員たちからも不評だった。でも、ぼくが20年以上前から唱えていた「生活のなかに大学があり、大学のなかに生活がある」という考えが、わずかながらも活かされることになった。

相変わらず、一限、二限といった「時間割」は基本的にはそのままだ。つまり、相変わらず週ごと、学期ごとに一連の段取りや手続きが整理されている。いまだに「学事日程」が、ぼくたちの生活のリズムをつくっているのだ。とはいえ、当時を知る人からすれば、ずいぶん変わったのだと思う。ぼくの提案が全面的に受け入れられて、一限の授業(9時〜10時半)は、すべてオンラインに移行し、午前10時半から午後1時までは「自由時間」になった。だから、朝は比較的ゆっくり過ごしてから、通学や通勤をはじめればいい。ついに、ぼくたちの昼休みは長くなった。これによって、学生はだいぶ救われたらしい。教職員の生活スタイルにも、好影響があったようだ。とにかく、朝が忙しすぎたのだ。
「オンライン」での授業歴も、すでに20年になった。あの年は、不安をいだきながら暗闇に向かってしゃべっているような感覚だったが、あらためてふり返ってみると、当時の大学はインターネットに救われたのだと思う。全教員がオンライン授業を実践したという、歴史に残る年だった。現場でのドタバタは茶飯事で、理不尽に思えることもたくさんあった。でも、ひとまずスマホさえあれば、なんとかなった。「授業」が途切れることはなかった。

f:id:who-me:20210601120441p:plain

どんなに時間が経っても、都心との距離は変わらない。郊外型のキャンパスは、多くが都心に戻ってしまったが、ぼくたちのキャンパスは、さらに個性を際立たせることになった。近隣のようすは、創設時からは想像できないほどの変貌ぶりだ。いっぽう、20年前の体験のなかで、一人ひとりの価値観が人目に晒された。目に見えないリスクに向き合うとき、どのように人と接するのか、何を大切にするのか。無情なまでに、お互いの人間性を露出し合うことになった。それぞれの危機意識はちがうし、大学に何を求めているかということさえ、いくつもの考え方があることにあらためて気づいた。もちろん「何でもアリ」ということにはならないが、空疎に響いていた「多様性(ダイバーシティー)」ということばが、多少なりとも実態をともなう形で理解されるようになった。時間と空間をどのように共有するのかという原点に立ち返って、たとえば「オンライン」か「オフライン(対面)」か、「オンキャンパス」か「オフキャンパス(自宅あるいは公園やカフェなど)」かなど、さまざまな側面から授業の開講形態の多様化がすすめられた。

鉄道の延伸もふくめて、通学・通勤に要する時間を短くしたいという思いは消えない。だから、都心から50キロの移動をどのように実現するのか、議論は絶えない。いっぽうで、しばらく家に閉じ込められていたことへの反動だろうか。のんびりと片道50キロの移動を味わいたいというニーズも無視できなくなった。鈍行ならば乗客も少ないし、静かだ。そんなニーズにも応えられるように、いまでは「オンムーブ」という開講形態もある。ドリル形式で知識を取得する内容であれば、移動中に授業を受けることもできる。たとえば、朝一番で自宅で「オンライン」の授業を受けて、それから「自由時間」をつかって移動する。移動中は「オンムーブ」の授業を受ける。「自由時間」ともなれば、ラッシュのピークは過ぎているので快適だ。そして、午後はキャンパスで対面の授業を受ける。じっと家にいるわけでもなく、すべてをキャンパスでまかなうわけでもない。
不思議なもので、キャンパスからちょうど90分くらいのところにある物件が人気だと聞く。「オンムーブ」の授業を活用するためには、ほどよく離れていたほうがいいからだ。もちろん、キャンパスのなかにある寮に住めば、またちがったライフスタイルで過ごすことになる。

ぼくは、「朝ドラ」を見てから身支度をして、自宅から一限の授業を配信した。授業を終え、午後は「研究会」があるのでキャンパスに向かった。やはり「研究会」は対面がいいし、なにより、自然の豊かなキャンパスは気持ちがいい。オンライン空間にキャンパスや教室を再現する試みは、ひと頃にくらべると格段に進化しているものの、やはりリアルなキャンパスにはかなわない。そして、50キロくらいの移動は、ちょっとした旅行のような気分で過ごせるようになった。毎日のように通っていた頃は、辛い通勤時間に感じられていたが、オンライン授業との組み合わせや、あたらしい「時間割」のおかげで身体への負担が減って、日常生活のなかで旅の気分を満喫できるのはむしろ健康的なのだ。
夕刻、「研究会」が終わってから、学生たちと一緒に滞在棟のキッチンに移動して晩ごはんをつくった。アイランドを囲んで、野菜などを刻みながら談笑するひとときは格別だ。そのあとは、遅くまであれこれと語って過ごした。明日は、朝一番で対面の会議があるので、滞在棟に泊まることにした。

「キャンパス」「教室」「授業」「研究室」「通学」など、大学を語るための多くの概念は、20年前を境に刷新された。「オンライン」でできることは「オンライン」で。時間や場所にしばられずに学ぶ。「オンキャンパス」のよさを知っていればこそ、ちいさな旅行を楽しみながら通う。「密」な時間を取り戻したので、泊まり込みで夜通し語り合う。20年前の大学を懐かしく思い出す日もあるが、いまの大学生には想像できないことが、たくさんあるにちがいない。大学は、変わらず面白い。いまも大学は、たくさんの人と出会い、自分を豊かにする方法や態度を学ぶ場所なのだ。*1

*1:注:今回の「おかしら日記」は、20年後の「いま」を想像しながら書いてみました。もちろん、20年後はどうなっているのかわかりません。ぼくは、すでに隠居しているはずなので、「研究会」のためにキャンパスに通勤することはないでしょう。ぼくたちの暮らし方、大学のあり方など、どのような「いま」がありうるのか、想像してみることは大切だと思います。この文章は、今学期開講している大学院アカデミックプロジェクト(AP)「経験の学」 で、大学院生たちと「未来」について語り合うなかから生まれました。

折り返し

2021年6月4日(金)

いろいろと書き留めておかないと、すぐにわからなくなる。ゴールデンウィーク明けの5月7日、11日までだったはずの緊急事態宣言が5月末まで延長されることが決まった。5月28日になって、さらに6月20日まで。結局のところは、2か月近くは緊急事態宣言のもとで暮らすことになった。
5月9日に予定されていた「2020年度入学生の集い」は、あおりを受けて中止となった。これは、その名のとおり、昨年度入学の現2年生を対象とした企画である。今年度については、入学式を(学生のみという不完全な形ながらも)実施することができたが、昨年は中止になってしまった。だからこそ、現2年生にぜひとも届けたいイベントだった。授業も4月末からオンラインに移行して、ますます心が痛む。

昨年の春学期は、全面的にオンライン授業になった。事前に決まっていたので、そのつもりで授業の準備をすることができた。不慣れなことも多く、戸惑いもあったが、おかげでじぶんの教授法について考えるきっかけになった。あらためてふり返ると、2020年は歴史に残る年なのだと思う。(ほぼ)全ての教員が、オンライン授業を体験したからだ。COVID-19の感染拡大という、なんとも不迷惑なきっかけではあったものの、「やるしかない」という状況になった。
この春は、許されるかぎり対面(オンキャンパス)で開講するつもりでいた。最初の3週間くらいは教室で集まることができたが、ふたたびオンライン授業へ。昨年度の経験があるので、授業の質はそれなりに維持できていると思う。とにかく、2年目ともなると、やるせない。

この1年は、いわゆる遠隔会議・講義用のシステムをかなりの頻度でつかってきた。他にさほど選択肢がないので受け入れざるをえないのだが、どうも好きになれない。難しいことだと知りながらも、やはり教室での一体感を少しでも味わいたいと思う。じぶんのしゃべり方や資料のつくり方なども、オンライン授業のためにあれこれ工夫している。機材のことなどもふくめて、同僚・同業者たちの試みは、大いに参考になる。
1月にGather.townのことを知り、その後は、成果発表の展覧会や「研究会」で、活用してきた(展覧会のことについては「展覧会を開く」「This is how we "gathered" this year」を参照)。リアルな教室での体験にはかなわないが、こっちのほうが、だいぶ気分がいい(https://www.instagram.com/p/CO1IzkDjI1F/)。だから、授業の教室もGather.townのなかにつくることにした。

これまでの経験だと、学期をとおして授業を続けていくと、なんとなく学生の顔を覚えるようになる。ぼくは、授業をしつつ前方から教室を眺めていて、回を重ねるごとに、受講している学生を位置で把握するようになる。というのも、学生たちは、一人ひとりの好みで席をえらび、毎回だいたい同じ席に座る傾向があるからだ。名前はわからなくても、たとえばいつも前の席に座っている学生、いつも(ぼくから見て)左後方にいる学生など、おそらく、教員の立ち位置からの眺めは、学生が想像している以上に整然としていて、その並び方は規則的にくり返されているのだ。
形状や机、イスの並べ方は、ほぼ同じ雰囲気になってはいるものの、画面のなかにつくられているのは、おもちゃのような(初期のビデオゲームのような)教室だ。不思議なことに、画面のなかの教室でも、学生たちはリアルな教室でえらんでいたのと同じ席に座るようだ。わずか3週間ほどだったが、リアルな教室での体験は、不完全ながらもバーチャルな教室のなかで再現されている。

ぼくは、授業の教室のみならず、Gather.townのなかに共同研究室もつくった。今年の春から「研究会」のメンバーになった2年生のことばが、印象的だ。現2年生は、リアルなキャンパスの体験が希薄だ(昨年度をとおして、一度もキャンパスに足をはこぶことができなかった学生は少なくない)。彼女は、数週間とはいえ教室に通った体験があったことで、画面のなかの教室にも多少なりとも親近感をいだくことができるという。例にもれず、画面のなかでも違和感なく「いつもの席」をえらんでいる。一時的に、平板な教室に移動しているという感覚だろうか。
いっぽう、彼女は、リアルな共同研究室にはいちども入る機会がないまま「全面オンライン」に移行してしまった。だから、バーチャルな共同研究室のなかでは、戸惑うのだという。なんとなく雰囲気は再現されているのだが、そもそもリアルに先行してバーチャルな共同研究室に入ると、居場所が見つからないということらしい。ぼくたちの知っているシミュレーターと呼ばれるものは、さまざまな理由で、リアルに先行してバーチャルな体験を実現するためのものだ。だから、バーチャルな共同研究室での活動は、やがてリアルに集うときのための予行演習だといえなくもない。いまは落ち着かない気持ちをいだきながらも、バーチャルな共同研究室に慣れておけば、いずれはリアルな行動に活かさればいい。そんなことを考えた。(おそらく、ギャップに驚く場面もたくさんあると思う。)

そして、この1か月はいろいろな変化もあった。あたらしい塾長が決まり、5月28日から新体制で動きはじめた。4年ごとに訪れる大きな「節目」なのに、春学期の半ばという、なんだか不思議にさえ思えるタイミングでの交代である(もちろん、理由はあるはずだ)。あたらしい塾長のもと、土屋さん(現総合政策学部長)が、8月から常任理事になることが発表された(おめでとうございます)。SFC担当の理事ということなので、これからぼくたちが引き起こす(かもしれない)トラブルの解消や、お願いする(かもしれない)案件の検討など、「面倒なこと」の多くが土屋さんに集中するのだろうか。
そして、同じ役目でいろいろな場面でご尽力いただいた國領さんが、8年という任期を終えることになった(長い間、ありがとうございました)。

COVID-19については、良くも悪くも常態化している。これを書いている数日前には、ワクチンの職域接種についてのアナウンスがあった。報告される感染者数は、減少傾向にある。そして、学期は早くも折り返し。

f:id:who-me:20210531134658j:plain写真は5月31日(月)。いよいよ、工事がはじまる。

いまこそ、コミュニケーション。

SFC生の皆さんへ、新型コロナへの対応状況について | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC) より転載。

2021年5月21日(金)

あっという間に春学期も後半です。学期がはじまって、最初の数週間は、オンキャンパスの授業でみなさんに会うことができました。ひさしぶりの教室で高揚感を味わったものの、緊急事態宣言の発出に先駆けて、授業をオンラインに移行することが決まりました。ゴールデンウィークを経て、いまだに落ち着かない日が続いています。

他キャンパス・他大学の状況とくらべたり、あるいはまちを歩いたりすると、複雑な気持ちになります。制限されることがたくさんありながら、余所とくらべると、不公平だと感じることもあるでしょう。

ぼくたち「3役」は、それぞれの考え方や物事のすすめ方はちがうものの、なにより、いま直面しているのは人の命にかかわることだという理解のもとで、一連の判断をしています。授業の開講形態やキャンパスをはじめとする施設利用についての方針は、慶應義塾の判断をふまえながら、SFCの特質を考慮して決めることになります。データにもとづいていても、将来を正しく予見できているとはかぎりません。むしろ、先のことはわからないものとして受け入れ、そのなかで決めるしかありません。

おそらく2人の学部長には、ぼく以上にたくさんの質問や意見が寄せられているのではないかと思います。一人ひとりの事情を聞き、一つひとつの事案を熟知すると、いま提示されている「ルール」や「決まりごと」は、ものすごく窮屈に思えることもたしかです。ただ、何も起きなければ、あとから胸をなでおろせばよいだけです。何かが起きてからでは、もう遅い。とにかく、ぼくたちの「キャンパスライフ」を守りたい。そう思っています。

そんななかで、最近、いろいろなことを考えます。たとえば、ぼくたちをとりまく社会状況が絶えず移ろい、「唯一の正解」のない複雑な課題が目の前に現れるとき、どのようなリーダーが求められるのか。いまのような状況下で、人びとは強力なリーダーを求め、強いことばを欲するようになります(ぼく自身は強いことばを発するのは不得手なので、そもそもイマドキのリーダーには向いていないのでしょう)。

強いことばは人びとを束ねて一体感をもたらしますが、ともすれば、ぼくたちは過度にリーダーに依存するようになり、自らが考えることを放棄してしまうかもしれません。それは、自立・自律への志向を失うことにつながります。また、強いことばによって曖昧さや揺らぎを許容できなくなり、分断を生むこともあります。

だからこそ、「3役」が、それぞれちがったことばでメッセージを綴ることに意味があるのでしょう。ときとして、決断が遅れたり、混乱を招いたりすることもありますが、〈多声〉を尊ぶことが大切です。いくつもの〈声〉に耳を傾け、自らも〈声〉を発する。それによって、ぼくたち一人ひとりが自分でよく考え、賢くふるまうようになります。さまざまな情報が、複数の経路やタイミングで提供されることもあるので、もう少しスッキリすべきだと思っています。その状況は少しずつでも改善されると期待しつつ、日に日に更新される情報をきちんとつかまえて、よく読んで行動につなげる。それを基本動作にしましょう。

もうひとつ気がかりなのは、最近、ぼくたちのコミュニケーションがちょっと雑になっているように思えることです。オンラインのコミュニケーションが圧倒的に増え、そのよさを体験的に学んできました。よく指摘されることですが、効率性や利便性を享受するいっぽうで、さまざまな「余白」がそぎ落とされていることもたしかです。「メールに書いてあります」「ウェブを見ておいてください」などと、あちこちで、乾いた事務的なメッセージが増えているように見えます。COVID-19のせいで、ぼくたちの人間性が露わになっているのかもしれません。

でも、そんな理由で、ぼくたちが不親切になってしまうのはなんだかヘンな話です。他者への想像力は、忘れずにいたい。たとえ離れていても、画面越しであっても、自分を成り立たせている誰かが、かならず向こう側にいます。いつも以上に、つまり、いまこそ、コミュニケーションに自覚的に暮らすことが求められているのです。声をかけあうこと、名前を呼び合うことの大切さは、つねに意識していたいと思っています。ギスギス、トゲトゲは避けなければならない。ぼくたちのちょっとした心がけと工夫で、窮屈な気持ちは和らいでいくはずです。

www.sfc.keio.ac.jp