リア充(っていうことなのか)

2023年7月26日(水)

カレンダーをめくることもなく、7月も中旬になってしまった。春学期、とくに後半は慌ただしくて、気づけばもう学期末である。最後に「マンスリー」を書いたのがゴールデンウィークのころだったので、ずいぶん空いてしまった。その間、いろいろなことがあった。
ゴールデンウィークが明けて数週間で、「学期前半科目」が最終回をむかえた。全7回という設定なので、5月中にひと区切りになる。短期集中で学ぶのは悪くないのだが、授業のまとめや採点の業務も必要になって、にわかに仕事量が増える。5月は、3回残留。そして6月に。今学期は、多くのことが対面になった。ぼくとしても、(これまでの反動もあって)意識的に外に出かけたり、人に会ったりするように動いている。外食も増えた。動けずにいた期間が長かったせいか、(いまさらながら)身体の使い方がよくわからないような、そんな感覚をいだきながら過ごしていた。

6月は、すべての週末に「行事」があった。まず、最初の週末は山口へ。学生たちとともに全国のまちを巡る活動は、もう20年近く続いている。あるタイミングで47都道府県の踏査が目標になり、いろいろな場所に出かけている。残り7府県というところまできて、COVID-19の影響を受けて身動きが取れなくなった。昨年の秋くらいから少しずつ活動範囲が広がり、今学期はずいぶんに自由になった。結局のところは、遠距離の府県が「未踏」になっていて、この春は山口県に行くことにした。
さすがに「飛び込み」で、まちの調査をすることはできず、知人を介して山口大学の鍋山先生との接点ができた。事前にオンラインでやりとりして、山口で実習ができることになったので、「本番」に先だって下見の旅行をした。6月最初の週末は、東岐波(宇部市)へ。お世話になるかたがたに挨拶をして、細かいことを相談した。海辺のコンテナハウスの宿で、穏やかに過ごした。

第2週の土日は「日本生活学会」が開かれ、ひさしぶりに対面で学会に参加した。やはり、対面だと気分がちがう。年に1回、同業者たちと顔を合わせて語らう。シンポジウムや口頭発表もいいのだが、ちょっとした立ち話が楽しい。少し大げさだが、お互いに元気に生きのびていたことを確認するような、そんなあいさつの場面がいくつもあって、少しずつ身体のなかにうるおいを取り戻しているような感じがした。学生とポスター発表に2件。ポスターセッションは、ゆっくりと話ができるのでいい。

第3週目は、大阪へ。昨年に引き続き、「慶應大阪シティキャンパス」で学部と大学院の説明会を開くことになっていたので、前ノリ。学部長とともにあれこれと話をしながら食事をした。近畿は5月の末にすでに梅雨入りしていて、蒸し暑い。翌朝は、いちおうスーツにネクタイで説明会に臨んだ。大学院の説明会は学部にくらべるとコンパクトで、それでも出願を考えている人で、席はほぼ埋まっていた。個別に話をした印象では、社会人入学を検討している人が多かった。説明会は滞りなく終わって、帰京。前の晩の店の冷房が効きすぎていて(本当に震えるほどだった)、それでなんだか体調がおかしくなったようだ。といいつつ、少しずつ回復。

そして第4週は、ふたたび東岐波へ。これが「本番」である。加藤研から参加の学生たちは17名ほど。現地で合流し、さらに、今回ご一緒することになった山口大学の鍋山ゼミの学生たちも10数名。かなりの大所帯で集うことになった。天気にも恵まれ(じつは、ぼくたちがフィールドワークを終えて戻った翌週あたりから中国地方は大雨だった)、充実した実習になった。
今回は、とにかく宿のロケーションがよくて、30名くらいの学生たち(加藤研+鍋山研)で海のそばでバーベキューを楽しんだ。肝心の成果のほうも無事にまとめることができた。ここ数年、いろいろと工夫をしながらフィールドワークの実習を試みてきたが、ここまで開放的な気分で過ごしたのは、おそらく2019年の冬以来のことだ。

こうして、6月はじつに「リア充」な週末を送りつつ、もちろん平日は授業や会議などの予定が詰め込まれていたわけで、6月は3回残留した。クルマを車検に出したり、病院の検査があったり、あらためてカレンダーを見直すと、ずいぶん動いた。クルマは11年目に入ってあちこち修理や調整が必要になったが、もはや大事な相棒なので、もう少し乗ることにした。まもなく160000キロになるが、まだしばらくだいじょうぶそうだ。

そして気づけば7月。最初の週末は七夕祭だった。模擬授業を頼まれていたので土曜日はキャンパスへ。いろいろ学生に頼まれる機会はあるが、七夕祭での模擬授業は初めてだった。そもそも聞きに来る人はいるのか、何人くらい来るのか、30分で何を話せばいいのか。わからないことばかりだったので、いちおう2つ話を準備して、現場のようすで決めることにした。
朝から雨模様だったが、七夕祭も「制限なし」で開催されるのはひさしぶりのことだ。午後になると雨が上がり、陽も差す感じだった。花火は上がるらしい。ぼくは、役得でVIP席(学生ラウンジの上)で空を見上げた。他にも報告すべきことがあるが、ひとまず7月に書く「マンスリー」はこのくらいにしておこう。

とにかく暑い日が続いている。七夕祭の晩に撮った写真を見ていて、なんだか不思議な感じがした。カモ池のまわりにこんなにたくさん学生がいて、かなり「密」だし、(それなりに)大きな声を出しているし、マスクもしていない。じぶんの活動量が格段に増えていることもふくめて、急激に日常が変わったことを実感する。この数年を「なかった」ことにはできないし、そんなつもりもないのだが、とにかく身体を上手になじませないとダメだな、と思う。

写真は7月1日。花火を待つ。

サボってみる

2023年7月18日(火)

SOURCE: サボってみる|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

暑い夏が来た。今年も「未来構想キャンプ」が開かれる。第1回が2011年だから、今年で13回目になる。ぼくは、ワークショップを担当したり全体の記録をおこなったり、初回からほぼ皆勤である。COVID-19の影響下でも、開催が見送られることはなかった。2年間のオンライン開催を経て、昨年から対面での実施に戻った。続けてきたおかげで、高校生たちと出会い、一緒に半日(昨年は宿泊型だったので一泊二日)を過ごすのが、年に一度の恒例行事になっている。
ワークショップは、いわゆる「模擬授業」とは大きくちがう。直接体験こそが学びの源泉であるという考えにもとづいて、闊達に語り合い、頭も身体も動かして、現場のなかから知恵やことばを紡ぎ出す。濃密な時間が流れるのだ。今年は、キャンパスで4つ、さらにキャンパスの外でも2つ(長崎、鳥取)のワークショップが開催される予定だ。

ぼくは、若新雄純さん(政策・メディア研究科 特任准教授)とともに、「サボりワークショップ」を担当する。じつは、この企画は2020年、2021年に続く3回目となる。せっかくなので、「サボりワークショップ」について少し紹介しておこう。一般的には「サボる」ことは、あまりよくないことだと思われているはずだ。やるべきことがあるのに、よそ見をしたり気を抜いたり、「本筋」から外れるような怠惰なふるまいとして理解されている。参加者の多くは、わき目もふらずに自分の目標に向かってすすむように心がけているにちがいない。だから、「サボる」のは、きっと不本意な行動だ。
「サボりワークショップ」では、あらかじめ決められた「時間割」どおり、各時限に担当教員が授業をおこなうことになっている。これは、高校生にとって親しみのある光景だろう。参加者は、それぞれの授業において「授業を受ける生徒」の役割を演じることになる。いっぽうで、「サボる」が主題のワークショップであるから、授業中という状況からどのように抜け出すかについて考えることにもなる。つまり、「授業を受ける生徒」であると同時に「授業をサボろうとする生徒」の役割も演じなければならないのだ。

このように、複数の役割があたえられ、不思議な葛藤が組み込まれたワークショップなので、当然のことながら参加者は困惑する。ワークショップの主題が「サボる」なのだから、賢明な参加者は「サボる」ことこそが高評価をえることだと考えるかもしれない。そのままおとなしく授業を聞くか、それとも授業を抜け出すか。たとえば2020年度に実施した「サボりワークショップ」の参加者は、ワークショップでの自身のふるまいをふり返りながら、つぎのような感想を述べていた。「授業自体に興味があったので受けていたけど、サボりたかった」「…授業だから、先生の準備時間のことを考えるとサボれなかった」「そもそもWS自体をサボろうかと考えていた」「サボるのが正解だと思ってそのままサボった」「途中から明らかに人数が減っていておかしいと思っていた」など、いろいろな想いでワークショップに向き合っていたようだ。
「サボりワークショップ」でどのようにふるまうかは、一人ひとりの参加者の判断に委ねられている。もちろん、唯一の正解はない。一緒にいる参加者たちのようすをうかがいながら、ときには同調的な圧力を感じながら、時間を過ごすことになる。

いうまでもなく、参加者たちを悩ませることは目的ではない。こうした設定でワークショップをおこなうことで、日常的に「あたりまえ」だと感じている授業や教室のありよう、時間の流れ方などを、あらためてとらえなおしてみたいのだ。授業中は、前を向いて座って先生の話を聞く。決められた時刻になると授業が終わり、少し休憩すると次の授業がはじまる。じつに規則的で、ムダを省くように設計された仕組みだ。ぼくたちは、そのやり方に慣れすぎている。「サボり」は、この「あたりまえ」のやり方を問いなおすきっかけとして位置づけている。

ふと窓の外に目をやったり、ノートに絵を描いたり。ささやかな「サボり」への欲求は、ごく自然に生まれてくる。「サボる」ことは、やるべきことからの逃避だと思われるかもしれない。だが、その欲求をただちに悪いこととして理解しなくてもいいはずだ。何かの目標に向かってすすんでいるとき、ぼくたちは、さまざまな「余白」をそぎ落とそうとする。その、そぎ落とされた「何か」の価値を知ろうとするのは、意味のあることだ。
なにより、「時間割」も教室も、授業のありようも、「あたりまえ」をつくって維持してきたのは、ぼくたちなのだ。そのことを実感し、これからの変化に活かすためにも、みんなで大いなる「サボり」を企ててみたい。

まったりした

2023年5月23日(火)

SOURCE: まったりした|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

10分前に、アナウンスをした。午後8時をむかえると、以降はPCやスマホを利用せずに過ごすことになる。できるなら、電気(Denki)、電波(Denpa)、デバイス(Device)の「3D」をすべて遮断してみたかったのだが、いきなり部屋を真っ暗にするわけにもいかず、建物のさまざまな設備が電気仕掛けで動いていることを考えると、ひとまずPCとスマホをオフにしておくだけでいいだろう。カウントダウンとともに、「実験」がはじまった。

今学期担当している「SBC入門」という授業の一環で、この日は「まったりする」というテーマを設定した。この授業は複数の教員で担当していて、初回(オリエンテーション)と最終回(講評とふり返り)にはさまれる各回は、担当教員がそれぞれのアイデアで授業内容を構成する。集中的に開講される「学期前半」科目なので、5月末には終了することになる。特徴的なのは、「SBC」つまり「Student Built Campus」の精神(未来のキャンパスは自分たちでつくる)の表れである滞在型の教育研究施設について、その施設を利用しながら考えるという点だ。もちろん、滞在(宿泊)することだけが目的ではないが、現場での直接体験をとおして学ぶのだ。そのため、この授業は18:00過ぎ(時間割だと5限後)にはじまって、翌朝に解散するという仕立てになっている。

ぼくの担当は、「学期前半」でも終盤にあたるため、これまでに開講された授業のようすがSNSなどに掲載されるのを眺めつつ、内容を再考した。ずっと「ステイホーム」が続いて、その反動なのだろうか。あるいは、もともとこのキャンパスに流れている気風なのだろうか。学生たちの動きは、とにかくせわしない。次々と目の前に出てくる課題をこなし、いつも提出期限に追われている。深い思考や内省的な時間をつくることさえままならず、なんだか浮ついた感じで日々を送っているようにも見える。
地に足をつけて、(借りものではない)自分のことばで語り合うこと。そのためのひとつのきっかけが「まったり」である。ぼくなりに届けたいと思っているメッセージは、届いているのだろうか。とりわけ「スロー」を標榜しているわけではないが、穏やかな時間を過ごして、身体と心を整えることに向き合ってみようと思った。

学生たちには、「3D」に頼ることなく「穏やかでこくのある時間を味わう」ことが目的であること、そして「基本、静かにゆっくり過ごします。下品に大声で笑ったり、激しく身体を動かしたりするのは言語道断(もってのほか)です」「20:00以降に可能なことは、代表的なものとして、おしゃべりする、お茶を飲む、文章を書く(手書きのみ)、本を読む、寝るなどです」といったガイドラインを事前に送っておいた。
じつは、「まったり」の時間がはじまった直後に、思わずポケットからスマホを取り出している自分に気づいた。そのようすは学生に目撃されてしまったが、慌てて「機内モード」に変更してカバンに入れて、翌朝までPCもスマホも使わずに過ごした。

夜がふけていくにつれ、学生たちのふるまい方は、概ね4つくらいに分かれていったように見えた。いずれも想像していたもので、それほど驚く出来事はなかった。まずは、早々にベッドに入る学生。これは、究極の「まったり」なのだろうか。教室なら授業中の居眠りはマイナス評価だが、滞在棟で行われている「まったりする」実習なのだから、さっさと寝てしまうのは、きっと正しいのだ。
つぎに、事前の連絡をふまえて、マンガや小説、スケッチブックなどを持参していた学生たち。読書をしたり絵を描いたり、それ自体は一人で向き合っているのだが、広間で周囲の気配を感じながら過ごすのは悪くない。バラバラのようで不思議な安心感や一体感が生まれて、「まったり」感が部屋を満たす。
また、最初のうちは「まったり」を受け入れようとしていたものの、すぐにそれを放棄して(あるいは耐えられなくなって)、みんなで賑やかにゲームに興じるような動きもあった。学生たちが宿泊を前提に集っているのだから、容易に想像できる展開ではあったが、ガイドラインを無視して大声ではしゃいでいる。たしかにゲームは人と人をつなぐはたらきをする。だが、静かに穏やかにおしゃべりができないのは、なぜだろう。その幼さにいささか呆れながら、ようすを眺めていた。
さらに、「まったり」と話をしながら過ごす学生たち。すでに、自然発生的にいくつかの集まりができていて、それぞれの場所でおしゃべりがすすんでいた。ぼくも、取材のコツから留学していたころの話、そして恋バナまで、いろいろな話をした。やがて、授業や「研究会」のありようについて、さらには一人ひとりの生きざまや将来への不安などが話題になった。

あらかじめ「日付が変わるころには寝ます」と記しておいたが、学生たちとのおしゃべりの時間は、しばらく続くことになった。だんだんと眠くなってきて、そろそろかな…と頃合いを見はからっていると、あたらしく誰かが輪に加わってくる。それを合図に話を終えるわけにもいかず、もう少し話す。そのくり返しだから、終わりは見えない。ひとしきりおしゃべりをしながら過ごしているので、すでに緊張感は解けて、身体の疲れ具合と相まって、ちょっとした心地よさを味わっていた。けっきょく、午前2時を過ぎるころまで、学生たちとあれこれとおしゃべりをしていた。

「まったり」の本質は、義務感や生産性から解放されることだ。はじまりも、終わりも決まっていないおしゃべりの時間は、じつは、わざわざつくり出すものではない。だから、「まったりする」ことが「課題」として設定されること自体が、じつは妙な話なのだ。誰かと、のんびりと話をする。一緒に「いる」だけでもいいだろう。そこから、相手に対する関心や、長きにわたってかかわり合おうという感情が生まれてくる。キャンパスには、「まったりする」時間こそが必要だ。