10年後のある1日。

この文章は、大学院アカデミックプロジェクト(AP)「経験の学」 で、大学院生たちと「未来」について語り合うなかから生まれました。学生3名とぼくの4名で、お互いの未来観を参照しながらリレー形式で綴った文章です。ぼくは、鈴木俊介→若月泰生→熊谷啓孝(いずれもM1, 敬称略)の順で綴られた「10年後のある1日」を受けるかたちで、「最終回」を書くことになりました。

[29] 2021年7月2日(金)

結局のところ、ぼくたちの日常生活に何か大きな変化があったのだろうか。「働き方改革」が急速にすすんだという意見もあるが、それを判断するにはまだ早いような気もする。ホログラムは、まだまだ現実感に乏しくて、対面でのやりとりを代替できるはずもない。一部の人は実験的にチップの埋め込みをしているが、10年前から、さまざまな認証や決済はスマホがあれば事足りる状態だったので、肌身離さずスマホを握りしめているのとさほど変わらないのかもしれない。「スマートホーム」的な管理や制御の仕組みは、だいぶ浸透した。これは、「非接触」の状況が求められて急速に受容・普及がすすんだのだ。これを、大きな変化と呼ぶのかどうか。

大騒ぎをしていたCOVID-19は、日常にとけ込んだ。インフルエンザの流行と似たようなもので、毎年、コロナの予防接種を受けるようになった。黒いマスクをしていても違和感をおぼえなくなったし、電車の運行が疎らでもイライラしない。最初は抵抗していても、やがて慣れてしまうことはたくさんある。
ツイッターもFacebookも、役に立つのかどうかわからないまま惰性で使っているあいだに四半世紀近くが過ぎた。『スマホ脳』という本がベストセラーになって、モバイルメディアとのつき合い方に警鐘を鳴らしていたが、相変わらず毎年新しいモデルが発表され、みんなこぞって機種変更をしている。
「去年(ウン年前)の今日は…」などと、いちいちSNSから通知が届くのには閉口気味だ。最近は、友だちの誕生日を知らせるのと同じノリで、2020年の緊急事態宣言のことやワクチン接種の行列にドキドキしながら並んだ日の記録が表示される。
あらためてふり返ってみると、とにかく人は群れることを好む生き物であるという事実を認めざるをえない。そして、スタイルこそ多様だが、ぼくたちは、共に飲んだり食べたりすることを好む。だから、一緒になっていくつもの過ちをくり返しているということなのだろう。

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10年前、飲食店の営業時間が制限され、ある時期はアルコールの提供が午後7時までになった。ウイルスの感染予防対策とはいえ、よくわからない方針だった。世の中の多くの人は9時から5時まで働いているわけで、しかも定時に退社できる人はそれほど多くもない。だから、事実上、大多数のビジネスパーソンは退社後の社交のひとときを奪われてしまった。午後7時までなら、しかたない。じゃあ午後3時から飲み始めよう。あるいは、ランチタイムにビールを飲めばいい。ぼくたちは、当然のことながら、社交を切望する本能に突き動かされて行動した。90分制限というのも、一つの店にかぎってのことなのだから、午後3時から適当に3軒ほどハシゴすれば、午後7時にはじゅうぶんに出来上がっている。たんに時間をずらせばいいだけなのだ。
あの頃を契機に、飲んだり食べたりする時間帯が、そして生活時間にかかわる方針全般が、すべての人に一様に訪れているわけではないというあたりまえのことを思い知った。考えてみれば、早朝のテレビに出てくるニュースキャスターは、自分とはまったくことなる時間帯を生きているのだった。昼夜が逆転しているのだ。深夜に道路などの集中工事やメンテナンスは行われているし、トラックは休むことなくモノを運んでいる。海外との遠隔会議のときには「時差」を意識していたが、じつは、ごく身近なところにさまざまな「時差」が偏在していた。この「タイムゾーンの民主化」ともいうべき動きは、まだ始まったばかりだ。結局のところ、四六時中灯りを消すことのない都市生活が続くのか。それとも、どのタイムゾーンを生きるかに応じて棲み分けへと向かうのか。

この10年で、記入フォームから「性別」欄が消えつつあった。とくに「男・女」で区別する必要もないし、どちらかに振り分けること自体が難しいことも少なくない。代わりに、どのタイムゾーンで暮らしているのか(あるいはどのタイムゾーンを選好するのか)が大事な情報として扱われつつある。タイムゾーンの多様性を認め合うのは、理屈ではわかっていても、なかなか難しい。

10年ひと昔というが、それほど変わらないのかもしれない。確実にわかったのは、リモートワークは「いつでも・どこでも」を実現する便利なものではなかったということだ。人との距離のありようを考え、社交の大切さを再認識したいま、「いつ・どこで」に対する感度が格段に高まった。どのタイムゾーンで、どの場所で過ごすのかという一人ひとりの細やかな欲求に応えながら社会生活を送るための仕組みは、そう簡単につくることはできないだろう。

ぼくは、いまも東京時間で暮らしている。「朝ドラ」が終わったら、身支度をして、出かけよう。何も、変わっていないのだ。