キャンパスに戻って考えた

[19] 2020年12月29日(火)

19.1 秋学期が終わった

秋学期が終わった。COVID-19のせいで学事日程が大きく変わり、年内にすべての授業を終えることになった。ふだんなら年末年始の冬休みを挟むこともあって、秋学期は長く感じるものなのに、はじまってからはあっという間だった。
春学期との一番大きなちがいは、(いろいろな制約はあるものの)「オンキャンパス」での授業が可能になったことだ。春学期は、学生たちといちどもキャンパスで会うことなく夏休みを迎えた。だからなおさらのこと、対面の授業を楽しみにしていた。そして同時に、ちょっと心配だった。それは、9月の末に実施した「特別研究プロジェクト」の経験からくるものだ。夏休み中の施設利用にかんするガイドラインで、キャンパスでの開講は認められてはいたが、10人以内(10人程度)という決まりになっていた。受講生は20名近くいたので、結局のところ2つ教室を確保して、ぼくが部屋を行き来しながらすすめた。また、ようすを見ながら講義の一部はオンラインで実施した。
予想どおり、学生たちはキャンパスでの再会をよろこんでいた。半年くらいキャンパスに入ることができなかったのだから、あたりまえだ。なかには今年の春に入学して、初めて教室で授業を受けるという学生もいた。じっと窮屈な暮らしをしながら待っていたぶんだけ開放的になる。その気持ちが、お互いの距離を縮めようとする。笑い声がひびく。いちいちうるさいことを言うつもりもないし、友だちと対面で過ごすことにはしゃぐのもわかる。そんな学生たちのふるまいを見ていて、秋からキャンパスに戻ることが少し気がかりにもなった。

3月に書いた「授業はどうなる」では、オンライン=オフラインとオンキャンパス=オフキャンパスを区別しながら、開講形態のバリエーションについて考えていた。春学期を経て、学生も教員も「オンライン授業」に慣れていった。春学期の「グッドプラクティス」については整理され、学生・教員の所感もまとめられている*1。いまあらためて読み返すと、ずいぶん昔の話のようにも思えるが、この状況が長引いていることで、多少は余裕を持って向き合うことができているのだろう。無事に秋学期を終えることができたので、簡単にふり返っておきたい。

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授業形態のバリエーション:3月30日「授業はどうなる」に載せた図。 https://kangaeru.iincho.life/entry/2020/03/30

 

(a) 完全オンライン|調査研究設計論(大学院)
学期前半は大学院の科目だったので「完全オンライン」にした。(秋学期がはじまる時点で)まだ入国できずにいる留学生のこと、調査研究の都合で拠点を移しているケースがあることなどをふまえて、全回オンラインですすめた。オンラインだったので、1・2限のふたコマ続き(9:25〜12:40, 休憩あり)で設定してもほとんど苦にならなかった。やはり、多くの学生や教員が春学期をふり返って口にしているとおり、移動の時間が節約されるのは大きい。とりわけ朝一番の授業の場合は、オンラインであることのありがたさを痛感する(ぼくたちの通うキャンパスが遠いということを、あらためて実感する)。
ぼく自身もオンラインの講義には慣れてきて、くわえて比較的少人数のクラスだったこともあって、毎回、(技術的なトラブルもなく)和やかな雰囲気で進行した。対面でなくても、回を重ねるごとに受講生たちの「顔」がわかるようになる。ひととおり講義が終わってから、(決してヒマではないのだが)ちいさなキャンパスツアーを企画した。聞いたところによると、秋学期から感染予防対策をしつつキャンパスを開いても、学生はあまり通ってきていないようだった(そもそも、「オンキャンパス」開講の科目がそれほどなかった)。せっかくなので、受講生に声をかけてみた。とくに大部分が留学生で、まともにガイダンスも実施できなかったので、いちど会っておきたいという気持ちもあった。
当日は、4名の学生がやって来た。オンラインで出会って、最後にオフライン(画面越しに関係が育まれ、やがて「オフ会」への想いが募るパターン)。滞在棟やメディアセンター、大学院棟など、1時間ほどかけて一緒にキャンパスを歩いた。それなりに、喜んでもらえたようだ。調べてみたら、そのころの日ごとの感染者数(東京都)は、だいたい500人程度。これを書いているいまは、900人を上回る日もあるので、わずか1か月ほど前は、ずいぶんちがう心持ちで過ごしていたのだと思う。

(b) オンキャンパス(+オンライン)|研究会(学部)
春学期の「研究会」は、なかなか調子がつかめないまま終わってしまった。その後、夏休み中に(秋以降の)キャンパス利用のガイドラインが整いつつあったので、秋学期の「研究会(ゼミ)」は基本的には「オンキャンパス」で開講することにした。これまでのようなフィールドワークや、宿泊を伴うような活動はまだまだ難しいが、やはり「研究会」は対面で顔を見ながらすすめたい。ウチのキャンパスは豊かな自然のなかにあるので、「外」を活用するのも悪くない。秋口の気持ちのいい季節なら、芝生に座ったり、建物の壁にプロジェクターで投影したり、教室を使わないやり方もありそうだ。結局のところ、秋を楽しみながら「外」で開講できたのはわずか数回だけで、ほどなく陽が落ちると冷え込むようになった。
とにかく教室は寒かった。換気のために窓を開け放ち、ファンを回しながらの授業になる。エアコンが稼働していても、容赦なく寒気が入り込む。机とイスには紙が貼られていて、間隔を空けて座るようにと促す。マスクや体温計、手指用の消毒スプレーなどが入った箱が常備されている。なんとも痛々しい表情の「教室」になっているが、もちろん、そんなことに文句をいうわけにもいかない。ファンのモーターの音は思っているよりも大きい。マイクを使っても、マスクをしたままだと思うようにやりとりできない感じだ。
「研究会」のメンバーの多くは、この状況になる前に出会い、すでに1年ほど(長ければ2年以上)のつき合いがあるので、コミュニケーションの間合いについてはそれなりに身体で理解している。ふだんなら、学期中に2回ほど実施している宿泊を伴う実習が、お互いを知るいい機会になるのだが、寒くて不自由な教室にいると、あたらしく加わったメンバーや、これまでさほど日常的にやりとりのなかった学生との距離感を調整するのは難しい。実習については、夏の「特別研究プロジェクト」から生まれた学生たちのアイデアが元になって、「非接触型」のフィールドワークを実施することができた。*2

(c) オンキャンパス(+オンライン)|インプレッションマネジメント(学部)
学期後半科目「インプレッションマネジメント」は「オンキャンパス」で開講すると決めていた。シラバスを記入する時点では、学期後半(つまり11月中旬以降)になれば状況が落ち着いているかもしれないという期待もあった。「第三波」を想定すれば、おそらくは学期前半こそが対面の授業に適していたかもしれない。いまふり返ると、年内に秋学期の講義をすべて終えるという学事日程の調整には慧眼を感じる。
この授業は、おおまかにいうと「コミュニケーション」の理論と実践を組み合わせたものだ。「自己開示」「印象」「役割演技」「らしさ」など、人と人とのかかわりについてどのように考え、自らのふるまいに結びつけるのか。簡単に「こたえ」の見つからない問いを、とにかく語り合うことを中心的な活動に据えた授業である。ここ数年は滞在棟を利用しながらすすめてきた。2016年春に滞在棟(滞在棟1)が竣工して、さっそく授業に宿泊を取り入れた。滞在棟の収容人数に合わせて受講者を選考することになり、結果としてはコンパクトなクラスになる。
滞在棟を使うときは、だいたい18:00ごろに集合して食事をつくり、みんなで大きなテーブルを囲んで食事をして、それからワークショップやグループワークをおこなう。日付が変わってからプレゼンテーションがはじまることもある。学生たちは活き活きとしているが、体力的にはなかなかハードだ。それでも、「コミュニケーション」が主題であればこそ、お互いに全人格的に向き合うところがいい。
そもそもが、こうした密度の濃い時間をつくる(つくるための)授業なので、宿泊はあきらめざるをえないとしても、やはり対面で開講したい。危険なことをするもりもないし、意地になっていたわけでもないが、とにかくこれは「オンラインではできない」授業だと考えていた。後述するように、数回はオンラインで開講することになったが、対面で50名規模の授業をおこなった。学期をとおして出席率は高く、他に「オンキャンパス」の講義が少なかったこともあってか、おおむね好評だった。

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19.2 「教室」をつくる

いま紹介した以外にも、「修士研究会」「レビュー科目」「モバイルメソッド」「経験の学」といった大学院の科目はすべて「完全オンライン」で開講した。大学院生の進捗報告は、オンラインのほうが集中して聴くことができるのかもしれない。マスクをはずしてしゃべることができるので、ずいぶん楽だし、少しでも(マスクなしの)顔をお互いに見せ合うことができるのはいい。チャットで資料やリンクが共有されて、充実した時間を過ごしている実感もある。
よく指摘されるが、ターンテイキング(発話順序の交代)は、オンラインだとやはりぎこちなさが残る。そして、プレゼンテーションは(あらかじめ書かれた)発表用原稿を読むことが多くなりがちで、どうも平板な印象だ。手が届くほどの距離ではないにせよ人肌を感じ、マスクをしながらも息づかいが伝わってくるような、そんな「教室」がやはり恋しい。

とはいえ学生も教員も、心理的な安全が大切だ。ここ数週間は、報告される感染者数が増加している。原則として「オンキャンパス」開講のつもりだった「研究会」も「インプレッションマネジメント」も、数回は「オンライン」に変更した。たとえば祝日が授業日になっていた場合には、駅や電車などの混雑が気がかりになる。あるいは気温が下がりそうな日は、極寒の教室にいると風邪をひいてしまいそうで心配だった。学生と相談しながら、授業形態を決めることもあった。別途、時間割や開講形態のありようについては整理するつもりだが、その日の天気や体調などに応じて、柔軟に組み替えることのできる仕組みがあるとするならば、学生にも教職員にも歓迎されるはずだ。いうまでもなく、学生たちの通学経路や住まい方はじつに多様だ。状況の理解に無頓着な学生もいれば、精神的にかなりの負担を感じている学生もいる。
学生にかぎらず、ぼくたちの日常はハプニングの連続だ。慣れ親しんできたはずの時間割や開講形態などの「決まりごと」が、一人ひとりの必要に応えられるほどのしなやかさを持ち合わせていないことに、問題意識をあらたにする。この先、どのような「教室」をつくっていけばいいのだろう。9月の下旬に「キャンパスへ戻ろう」と決めて、いまは無事に学期を終えてひと息だが、大きな宿題をかかえた年越しになる。

カレンダーを見返してみると、結局、秋学期は週に3回ほどはキャンパスに通った。春学期は窮屈な思いで過ごしていたので、その反動かもしれない。秋色に染まるキャンパスは美しかった。毎年、秋になると東名高速の集中工事がおこなわれること、そしてタイミングによっては夜の上り方面が大渋滞することもすっかり忘れていた。渋滞は避けたいところだが、懐かしい出来事に遭遇したような気持ちさえして、「通勤時間」も大切であることを実感した。
数日前、4年生たちから「卒業プロジェクト」のドラフトを受け取った。ドラフトを受け取ってから忘年会へ(あるいは忘年会でドラフトを受け取る)という流れの、毎年恒例のちいさな「儀式」だ。今年は、「儀式」そのものは10分ほどで終わり、なんとも素っ気ない節目になった。陽が落ちる前に帰路につく。歩道橋の上から、白い月が見えた。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:SFC2020 春学期オンライン授業 https://www.sfc.keio.ac.jp/campuslife/online2020_spring/

*2:人びとの池上線(2020年10月)https://camp.yaboten.net/entry/epiil 人びとの世田谷線(2020年11月)https://camp.yaboten.net/entry/episl

サボる

2020年12月4日(金)

今年も、キャンパスの紅葉は美しかった。いまは、キャンパスに足をはこぶのが特別なことのように感じられるので(そもそも、そのこと自体が残念だけど)、なおさら秋の彩りを愛おしく眺めていたのかもしれない。葉が落ちて、いかにも冬という空気が漂いはじめた。そして師走である。10月に新学期がはじまってから、淡々と時間が流れている。研究会は基本はオンキャンパス、学期後半になってもう一つオンキャンパス開講の授業がはじまった。打ち合わせや会議なども、一部は対面で予定されるようになっている。それでも、なんだか平坦な毎日である。感染者数が増えているので、この先の施設利用など(そしてその先にある新年度のこと)が気がかりである。

11月の中旬には「人びとの世田谷線(Every Person in Setagaya Line)」というフィールドワークを実施した(https://camp.yaboten.net/entry/episl)。これは、10月におこなった「人びとの池上線」とほぼ同じやり方で、対象となる路線を変えたものだ。いつまでも身動きできずに過ごしているのにも飽きてきたし(悔しいし)、じゅうぶんに注意しながら、なるべく「外」へと向かうことにしている。そのために、あれこれと工夫が必要になる。2度の試みをとおして、オンラインとオンサイトを組み合わせたフィールドワーク実習のやり方がわかってきたように思う。とくにフィールドワークの当日は穏やかな陽気だったので、のんびりと「外」で過ごした。わずかな時間でも、実際に会って(今回は公園だった)お互いの成果を見せ合うような場面は大切だ。

この時期は、いつもなら「ORF(オープンリサーチフォーラム)」で慌ただしく過ごしている。実行委員(実行委員長)としてかかわることもふくめ、この10数年は、毎回展示やセッションに参加してきた。今年も開催予定ではあるが、時期も開催方法も変わるので、いつもの忙しさはない(そもそも、このタイミングで準備をするのはムリだった)。その代わりに、というわけでもないが11月23日に「未来構想キャンプ 2020」が開かれた。10年目、そして初のオンライン開催だった(全体のようすは、今週の「おかしら日記」に書いた https://www.sfc.keio.ac.jp/deans_diary/015087.html)。

ぼくは、若新さんとともに“「サボり」ワークショップ”を担当した。いろいろと準備をすすめながら、このワークショップのために茶慕里高等学校(https://fklab.net/sabori/)という架空の文脈を用意することにした。高校生たちは、そのなかで授業を受けながら「サボる」ことについて思案する。ぼくは、校長の役だ。「校長室」という名前のブレイクアウトルームで待っていると(当然のことながら背景画像も「校長室」)、何人かの高校生たちが、授業をサボって「校長室」に入ってきた。そこで、あれこれと話をした。サボって「中庭」や「屋上」に向かう生徒たちもいた。ぼくの頭のなかでは、くり返し『トランジスタ・ラジオ』が鳴っていた。

「サボり」がテーマなのだから、授業を抜け出すのがよいのか。それとも、真面目に授業を受け続けることこそが、ワークショップのねらいから逸脱する「サボり」になるのか。他の生徒たちのふるまいも、つねに見えるようになっている。ゆるやかに進行しつつも、ちょっとしたジレンマに直面しながら過ごす。
最後は、その体験をふり返りながら、「サボり」について語った。たとえば「授業を準備してくれている先生のことを考えるとサボるわけにはいかない」「実演の部分は面白かったけど、説明のところは(つまらないので)サボった」などというコメントがあった。架空の文脈での出来事だが、いずれも純粋で大切な指摘だ。人と向き合うときに謙虚であること。そして、留まるにせよ抜け出すにせよ、面白さが必要だということ。授業が面白ければ、生徒は留まる。「屋上」が魅力的なら、生徒は授業を抜け出す。茶慕里高等学校の「校長あいさつ」は、次のように結んだ。架空の設定だから、勝手なこと(でも言いたいこと)を書けるのだ。

慶應義塾大学SFCでは、キャンパス内にある“鴨池”を眺めながら、友だちと語らうことを「カモる」と呼んでいるそうです。茶慕里高等学校では、どこにいても、どんなときでも、空想の翼を羽ばたかせ、自由に広い世界を飛び回ることを「サボる」と呼んでいます。

そうです。私たちには、のびやかな想像力がある。だから、私たちの学びは止まらない、いや、止められないのです。
https://fklab.net/sabori/greetings.html

f:id:who-me:20201203113501j:plain(12月3日。ついに「NORTH」が姿を現した。)

未来

2020年12月1日(火)

出典:未来|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊 | 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)

「未来構想キャンプ」という実験的な試みがはじまったのは、2011年の夏だった。あの年のことは、いまでも鮮明に思い出すことができる。卒業式は中止(延期)になり、新学期は5月スタートになった。春学期の授業回数を確保するために、休日にもキャンパスに向かった。無力感につつまれ、何をするにもためらいがちだったあの夏に「未来構想キャンプ」がはじまったのだ。

変化を拒まない。そして、何があっても目の前の状況に立ち向かう。ぼくたちにどれほどの気概と実行力があるのか、ぼくたちこそが試されている。そんな気持ちで「未来構想キャンプ」にかかわった。前夜には、担当する教員たちが興奮して眠れないような雰囲気になって、夜どおし語っていた。

キャンパスのことを知る手がかりは、たくさんある。ウェブサイトやガイドブックなどをはじめ、オープンキャンパスのようなイベントでは「模擬授業」も提供される。「未来構想キャンプ」は、高校生たちとの距離をさらに縮める体験型のプログラムだ。課題に取り組みながら、朝から夕方まで一緒に過ごすのだから、おのずと一人ひとりの人間性を見せ合うことになる。ここ数年実施していた滞在型のワークショップであれば、文字どおり寝食をともにしながら過ごす。どこで、誰と、どのように学ぶか。この「キャンプ」をとおして、お互いの相性を確かめることができる。
今年は、SFC創設30年であるとともに、「未来構想キャンプ」は10年目という節目だった。ぼくは、特別研究期間(サバティカル)で一度だけ参加の機会を逃したが、初回からずっとかかわってきた。おそらく、高汐さんに次いで「参加率」は高いはずだ。その自負もあって、少しばかり意地になっていたのかもしれない。とにかく、今年も開催できることを願っていた。教職員とSFC生の想いが束ねられて、オンラインでの「未来構想キャンプ」が実現した。

ぼくは、若新さんとともに“「サボり」ワークショップ”を担当した。このテーマを思いついたのは、ここ半年間の窮屈な状況と無関係ではない(概要や経過については、別途まとめているところだ)。春学期がはじまってから、ぼくたちの物理的な移動が著しく制限されるようになり、一日の過ごし方がずいぶん変わった。オンライン化に慣れるにつれて、時間割もスケジュール表もムダのない形になったように思える。効率的になって歓迎すべきことはたくさんあるのだが、いっぽうで休憩や移動にともなって生まれるはずの「余白」や「間(ま)」がそぎ落とされていった。ちょっとした立ち話や、誰かと偶然に出くわすようなことの大切さを、あらためて感じている。おなじように、「サボる」ことの意味や価値も変わるのではないか。それが出発点だった。「サボる」ときには、勇気も冒険心も求められるだろう。仲間が必要かもしれない。善し悪しについては状況しだいだが、「サボる」ことは、たんに逃げ出すのではなく、自由を求めて想像力を動員し、行動につなげることなのではないか。そんなことを高校生と語ってみたかった。

これまでの「未来構想キャンプ」は、8月の猛暑のなかで開催されてきた。暑いし疲れるし、終わるたびに来年は休もうと思いながらも、高校生たちの熱気と同僚たちのテンションの高さに惹かれて結局は翌年も参加する。それが、ずっと続いてきた。今年は秋の一日。初のオンライン開催だったが、とくに大きなトラブルもなく、無事にフィナーレを迎えることができた。画面越しに届けられる声は、どれも瑞々しい。参加した高校生たちの意見や感想をまとめたアンケートの結果はまだ見ていないが、全体をとおして好感触だった。なにより、教員やSFC生たちから、ひと仕事終えたあとの高揚感がにじみ出ていた。
土屋さんも触れていたのだが、参加した高校生たちは、オンラインでの実施について不自由を感じているようすはなく、もはや「あたりまえ」になっているようにさえ見えた。「あたりまえ」のように背景画像を設定し、いちいち「聞こえますか」などと言わずに、ごく自然にマイクのミュートボタンを操作する。開放されていたブレイクアウトルームを自在に行き来しながら、ワークショップの時間を過ごしていた。

大学生という未来を想い描きはじめた高校生たちは、オンキャンパスもオンラインもふくめてさまざまな開講形態がありうることを、すでに身体でわかっているのだ。オンラインで受講することで、時間と空間のありようが再編成されてゆくことにも、きっと気づいている。大人が口にする「あたらしい日常」は、今年オンラインで出会った高校生たちにとって、少しもあたらしくはない。みんな準備をして、すでに未来にいる。そんな未来に出会った。