時間を出し合う

[10] 2020年6月12日(金)

10.1 通勤時間がなくなった

オンラインの講義がはじまって、1か月半。早いもので、春学期も折り返しである。オンラインの授業については、だいぶ慣れてきた。いまのところ、(少なくともぼくの側での)大きなトラブルはない。オンライン講義の場合、時間割どおりの時刻までに「教室」を開けておかないと学生たちが入れないので、遅刻することはできない。とても規律正しい毎日である。毎時間、出席の確認はしていないが、「参加者」として表示される人数を見ているかぎり、出席率はかなり高い。もっとも、学生たちはいちど接続しておけば、あとは、いろいろな方法で「退出」することができるが。
授業に先だって、学生たちにはその日のコンディションを聞くようにしている。同じ教室にいれば、たとえば顔色が悪ければ気づくこともあるだろうし、「お腹がが痛い」などと、その場で伝えてもらうこともできる。画面越しだと、万が一のときに直接はたらきかけることができないので、そのことはつねに気がかりだ。5月の中頃から、「少し疲れている」と回答する割合が増えてきたように見える。ぼく自身も、イスに座ってディスプレイに向き合っている時間が増えて、首や肩、腰に負担がかかっていることはまちがいない。なるべくストレッチをしたり、散歩に出かけたりするようにしているが、なかなかキツい。平日が、いままで以上に規則的になっている分、週末に疲れが出る。 

ぼくの一日の過ごし方は、明らかに変わった。家から一歩も出ない日がある。これまでにはなかったことだが、それが少しずつあたりまえになりつつある。たとえば、ある水曜日をどのように過ごしたのか、図示してふり返ってみよう。
5月20日(水)のぼくは、このタイムラインのように過ごした。時間の流れは左から右へ。見てのとおり、この日は、ほぼ丸一日(23時間)を家のなかで過ごした。毎週水曜日は「会議日」なので授業はなく、オンラインの会議(それぞれ1時間という設定)が4つ。午前中に二つの会議を終えて、ランチの前にちょっとだけ近所に出かけたくらいで、あとはずっと家にいた。もちろん、家のなかでもトイレやシャワー、寝室、ダイニング、自室、と細かく見ていけば移動しているが、それほど大きな動きではないので、「家」として一つに束ねてある。この日は、ランチの写真を1枚Instagramにアップしただけ。ふだんのように、まちに出かけていれば、あれこれと写真を撮ってSNSに投稿していたはずだ。

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2020年5月20日(水)のタイムライン|上:「自粛生活」 下:職場に出かけていた場合

試しに、「もし、いつものように大学に行っていたら」どうなるのか。同じ要領で タイムラインを描いてみた。会議の予定はあらかじめ決められているので、開始時間等は変わらない。変わるのは、ぼくの動きだ。この4つの会議が職場でおこなわれていたとすると、ぼくはいつもより早起きし(睡眠時間は短くなっていたはず)、「朝ドラ」を見るのをあきらめ、最初の会議がはじまる9:00までにキャンパスに到着するように余裕を持って家を出かけていたはずだ。片道50kmほどのドライブ。そして、朝から夕方までキャンパスで過ごす。仕事モードだと、ランチタイムは短めになって、午後の会議を終えるとふたたび運転して家に帰るという流れだ。

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このように、じぶんの一日の動きを簡単に書き出してみるだけで、「自粛生活」によるリズムの変化をふり返ることができる。見てのとおり、ここ1か月半は、移動の時間がほぼ不要になった。これまでは、事故渋滞なども想定しながら早めに家を出るようにしていた。電車を使う場合なら、移動に要する時間を確かめて駅に向かう。これまで20年近く通勤してきたことをふまえると、移動のための時間とエネルギーは、無視できないものだった。
2つのタイムラインを描いてみてわかったのは、(在宅ではなく)大学に出かける場合でも、たとえば水曜日という「会議日」は、さほど起伏のない単調な一日だということだ。ひとたびキャンパスに行ってしまえば、朝から夜まで、ずっと「会議日」モードで過ごす。会議と会議の「間」は、60〜90分くらい空いているが、会議が少し延びたり、ちょっとひと息ついたりしているうちに、すぐ「つぎ」が来る。

いまは、身支度さえ整えておけば、会議や授業がはじまる直前までのんびりした気分で過ごすことができる。それは、職住の一体化という、これまでにはなかった体験だ。だが、クリックひとつで「教室」や「会議室」に移動するやり方をくり返していると、少しずつメリハリがなくなってくる。瞬時に移動できると思って、いろいろと予定を入れてしまい(入れられてしまい)、移動に使っていたはずの時間にまで仕事が侵食しはじめている。いわゆる“テレワーク”によって時間が増えたと思いながら、余計に忙しくなっているのではないだろうか。運転するにせよ電車に揺られるにせよ、移動の時間は、心身を整えるために必要だった。「つぎ」に向かうまでの、大切な〈余白〉だったのだ。「オンライン化」によってもたらされた利便が、これまでの生活から何かを奪っていても、あたらしい体験なので、なかなか気づきにくいのかもしれない。

もうひとつ、忘れてはならないこと。それは、会議や授業は、じぶん一人ではなく、何人もの「参加者」たちとの合意と調整によって成り立っているということだ。会議は、リアルタイムでおこなわれる。つまり、スケジュールどおりに、みんなが時間を出し合うからこそ、会議が実現するのだ*1
授業については、オンディマンド(録画配信)で提供することもできるが、ぼくは(いまのところ)すべてリアルタイム(同時配信)でやることにしている。移動の時間や手間は、大きく変わったが、決められた時間に、学生たちと時間を合わせてオンラインの「教室」に集う。なるほど、「時間割」を組むことで、待ち合わせの約束をしているのだ。これまでとは少し勝手がちがうものの、いくつもの約束があるから、ぼくの生活リズムが保たれている。

オンラインによる授業の可能性は、まだまだこれから発見されてゆくはずだ。ぼくは、リアルタイムをえらんでいるが、オンディマンドは、いま述べてきたような意味での待ち合わせの約束をしないということだ。そのやり方をえらぶとき、ぼくたちの関係はどのように変わるのか。便利になること、それによって変容をせまられることは何か。引き続き、考えていきたい。

(つづく)

イラスト:https://chojugiga.com/

*1:このことについては、数年前にブログ記事を書いた。→ ランチの約束 - the first of a million leaps - Medium

衣替え

2020年6月1日(月)

学期がすすむにつれて、忙しくなってきた。もちろん、5週目あたりというのは、ふだんもこんな感じだが、オンラインの授業は準備に時間がかかる。授業や会議のほかに、学生との面談の予定を入れると、カレンダーの「余白」がなくなっていく。これまで移動に使っていた時間までもが侵食されるので、注意が必要だ。カレンダーには、(いままで「場所」が書かれていた代わりに)URLが記載されるようになって、それが「あたりまえ」になりつつある。ひとつ終わると、次へ。クリックして、会議室を出入りする。予想していた以上に規則的な毎日だ。
「自粛疲れ」というのは、たしかにあると思うが、おそらく学生も教員も「オンライン疲れ」が出ているはずだ。念のため、授業に先だって学生たちにその日のコンディションを確認することにしている。詳細は省くが、選択肢は「とても調子がいい」「調子はいい」「ふつう」「ちょっと疲れている」「体調が悪い」の5つだ。「とても調子がいい」「調子はいい」「ふつう」 を合わせると、だいたい6〜7割くらいだろうか。5月の中ごろになって、「ちょっと疲れている」が増えたようだ。これには、ぼくも同感。自室で過ごす時間が長いので、気をつけたい。もちろん、身体だけではなく心も。

5月14日、39県で緊急事態宣言が解除された。東京、神奈川をふくむ8つの都道府県については「まだ」という判断だったが、待ちきれなくなったのだろう。人が増えてきたようだ。
一度だけ、大学に置いてある本と資料を取りに行くために、キャンパスまで出かけた。およそ1か月半ぶり。運転するのも、ずいぶんひさしぶりだった(あたりまえだが、しばらくガソリンにお金を使うことがなかった)。高速は空いていて、ストレスなく大学へ。北門から入り、ゆるやかなカーブをすすむと視界がひろがって、校舎が見える。これまで、数え切れないほどくり返してきたはずなのに、もうそれだけで無性にうれしかった。シロツメクサも芝生も奔放だ。なるほど、ふだんはマメに整えられているのだと、あらためて思った。木々や草花は、ぼくたちの「自粛生活」のことなどおかまいなしに、上に向かって、光に向かって、伸びようとしている。
研究室は、ひっそりとしていた。賑やかな時間が恋しい。早くみんなに会いたい。

授業のほうは、もうすぐ「学期前半科目」が終わる。今年は回数が少なくなったこともあるが、ようやくオンラインの授業にも慣れてきたところで「節目」が来る。幸いなことに、これまでのところ、授業評価はおおむね好評だ。「学期後半も何かしらの形で関わりたい」といううれしいコメントもあった。オンラインの講義がどのような可能性をひらくのか。試してみなければわからないことが、まだたくさんある。

そして、もう6月である。衣替えのときだ。いつもなら、まちを歩くだけで感じられる。道ゆく人びとの装いに、季節の変化が表れる。新入生たちは、春に着るはずだった制服に袖を通すことなく、夏服で登校したのだろうか。
4月の中ごろ、オンライン会議や授業のために、背景用のバナー(書き割り)をつくった。ウェブカメラをとおして、雑然とした自室を晒すことになるので、背にする本棚を隠そうと思った。「STAY@HOME」の文字を印刷したバナーを提げて、2か月近く過ごしてきた。あたらしい月をむかえるにあたって、「STAY@HOME」の文字を消して、「Stay Safe」と「Stay Tuned」に変えた。まだまだ気を緩めてはいけないが、少しずつあたらしい段階に向かいたい。ささやかながら、背景も衣替えである。

引退から40年。山口百恵の楽曲が解禁になった(ストリーミングサービスで600曲近く)。さっそく、夜のまちを散歩しながら聴きなおしている。懐かしい「名曲」がたくさん。

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 写真は5月31日。夜の散歩。

オンライン

2020年5月19日(火)*1

ぼくは、甘かった。しばらくすれば、新緑のキャンパスに集い、賑やかな新学期を味わえるものだと思っていた。学事日程をはじめ、キャンパスの利用などについて会議を重ねるなかで、それはかなわないことがわかった。さまざまな事案があるので、情報の流れはいくつにも分岐し、話が複雑になっていく。じぶんがきちんと判断できているのかどうか、自らの状態さえもが気がかりになる。たびたび、同僚からの叱責(と励まし)も届く。
ほどなく「ゴールデンウィーク」がせまってきた。今学期はオンラインで開講することが決まってから、すでに1か月ほど経っていたが、会議や打ち合わせに時間とエネルギーを奪われて、授業の準備はほとんどすすんでいなかった。4月は、いろいろ大変だった。

授業は、オンラインで提供するしかない。そのことは受け入れながらも、なぜか「他人事」のようにとらえていた。それは、じぶんが担当する授業が、オンラインになじみにくいからではない。新型コロナウイルスの騒ぎで、とにかく「授業をすること」「授業を続けること」ばかりに気を取られていると、何か大切なことを忘れてしまうのではないかという懸念からだった。
もちろん、現場は大変である。いきなり無茶な要求が舞い込んで、授業のオンライン化に向き合うことになったのだから、困惑する同僚は少なくなかった。そのいっぽうで何人かの同僚たちは、機材を揃えて自室をスタジオのように設えはじめた。嬉々としたようすが、絶えずSNSに投稿される。オンライン講義のノウハウやコツを共有する動きも活発になった。そのモチベーションの高さやエネルギーには、頭が下がる。でもぼくは、依然として、オンライン化に盛り上がる機運を少し遠くから眺めていた。

昨年の暮れ、ある集まりで平高さん(この3月に定年で「卒業」)が口にした「教授力」ということばが、ずっと頭を離れなかった。「教授力」への問いかけは、ゲストスピーカーに頼りすぎたり、時流に乗ることばかりを優先したりすることなく、自身の授業の完成度を高めなさいという叱咤激励のように聞こえた。地に足をつけて、一人の力で授業を成り立たせよと鼓舞しているのだと思った。グループワークもフィールドワークの実習も、思うようにできない。ずっとイスに座ったまま、すべてが画面越しにおこなわれている。映像やさまざまな資料、アプリなどを駆使すれば、ぼくたちの身体感覚を拡げることはできるはずだが、視覚的な情報ばかりが肥大化を続けると、ますます足は萎える。ぼくは、オンライン化されても残るものは何か、守るべきものは何かについて考えはじめた。それは、「教授力」とは何かを自問することなのだと思った。

4月30日、授業がはじまった。初回のオンライン授業は、少し緊張はしたものの、とくに大きな問題もなくすすめることができた。学生たちは、ずっと待たされていたという感覚が強かったのだろう。ぼくの呼びかけに対して、活発に反応してくれた。たしかに、教室での授業とはずいぶんちがう。勝手がちがうので戸惑いつつも、学ぶことは多い。ひとまず数週間を終えて、わかったことがある。それは、(心持ちとしては)画面に向かってしゃべるのではないということだ。つまり、いくつもの顔が並ぶ平たいディスプレイを見るのではなく、その向こう側を想い浮かべるといい。場合によっては、カメラを止めてもいい。さまざまな技術的な可能性をできるだけそぎ落として、じぶんの〈声〉だけに意識を集めて、向こう側に届ければいいのだ。そう思えたとたんに、ずいぶん気持ちが楽になった。

「教授する」ことは、つまり「場」をつくることだ。空間については、それほど自由はない。だからこそ、ぼくは、〈声〉を頼りに時間をつくるのだ。毎回、遅れることなくオンラインの「教室」を開けて学生が来るのを待つ。決められた時刻になったら、話をはじめる。相手の顔も見えず反応をうかがうのも難しい状況で、それは、一人で暗闇に向かって叫び続けるようなものだと評する人がいる。だが不思議なことに、ぼくは(いまのところ)その孤独さを感じることはない。姿は見えないが、お互いに時間を出し合ってオンラインで集まっている。ぼくの〈声〉は、学生のもとへ。それに対して、質問やコメントという形で応えが返ってくる。じぶんの〈声〉が遠くにまで届けられていることを実感しながら、あっという間に90分が過ぎる。

ふだんなら、授業がはじまると慌ただしくなってストレスを感じたり愚痴をこぼしたりするのだが、今年はちがう。授業がはじまったおかげで、落ち着いた。ようやく、リズムを取り戻せるような気がした。